プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

映画「オリエント急行殺人事件」(1974年)を久しぶりに見たよ

f:id:indoorffm:20071004132224j:plain

図書館にあったDVDを借りて、十数年ぶりに1974年に製作されたこの映画を見た。通算で4回目だと思う。クリスティの原作も大好きだが、個人的にはこのシドニー・ルメット監督作品を見て、 “Murder on the Orient Express”(原題)という作品のほんとうの面白さを充分に理解できたような気がしている。そしてこのありがちな原題こそがこの作品の本質を語っていたとも。

原作は本格推理小説としては破格な作品だ。特に最後の事件処理は掟破りとしか言えないであろう。しかし、その掟破りが読者の胸を熱くさせるのだ 。

 


クリスティは本格推理の大家だが、一方で『アクロイド殺し』のような読者を欺く作品や『オリエント急行殺人事件』『そして誰もいなくなった』のような推理小説の定石を軽々と飛び越えるような作品をつくり出した。それはトリックだとか、犯人設定だとか人称や語り方、プロットの置き方といったテクニカルな小説技法の問題として語られがちだが、クリスティの読者なら、それが犯罪とそれに関わる人間という物をあぶり出す巧みな舞台装置であることに首肯してもらえるに違いない。クリスティは技巧を目指したのではなく、犯罪とそれに関わる人間の再現にこそもっとも力を注いだ作家であったのだと。

そしてクリスティによって設えられたその舞台装置を十全に味わうためには、犯人を含む登場人物たちが生きている生活・文化環境や時代状況のニュアンスを知っておくべきだろう。グローバルな時代とは言え極東に生きる我々は翻訳本だとなかなかそこらへんを体感するのが難しい。しかし、映画は目の前でそれらを見せてくれる。もちろん、そこらへんがいい加減な映画もあるけれど、この映画のプロダクションは完璧に近いのではないか? それまで自身の作品の映画化に消極的であったクリスティが、「オリエント急行殺人事件」の出来栄えの良さに、以降は映画化に色よい返事をすることが多くなったという。

もちろん俳優陣も素晴らしい。イングリッド・バーグマンローレン・バコール、バネッサ・レッドグレーブ、ジャクリーン・ビセットらの女優陣の活躍が目立つが、ショーン・コネリーアンソニー・パーキンスらの抑えた好演も見逃せないし、こんな大物揃いのキャスティングで全員がなんら不自然さもなく作品世界を「生きている」ことに驚かされる。
(ちなみにバーグマンは当初、プロット上の重要人物である公爵夫人に配役予定だったが、脚本を読み、やや重要度が下がる外国語が苦手な地味なスウェーデン人中年女性の役を自ら希望して演じた。結果、アカデミー助演女優賞受賞)

不自然さと言えば、主演のアルバート・フィニーは当時30代にもかかわらず、特殊メイクで初老の名探偵ポワロを演じたが、その出来の良さにはちょっとあっけにとられる。不自然さを逆手に取った自然さ、とでもいえばいいのか。フィニーのポワロがこれ一作なのが惜しまれる(いや、これ一作だから良かったのか)。

とにかく僕はこの映画が大好きで、話の結末はわかっているのに毎回見るたびに目頭に水分がたまる。特に最後の回想的な犯行シーンとまるで舞台のカーテンコールのような乾杯シーンのエピローグを見ていると、胸がグッと詰まって、熱いものが込みあげてくる。しかし……そこで心から感動してしまうということは、「人殺し」を肯定することに等しいのである。クリスティの仕掛けた罠は英国人らしい悪意に満ちている。そこがたまらないのだが。