プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『終わりなき日常を生きろ』REVISITED 〜新型コロナウイルス・パンデミックに思う

 

終わりなき日常を生きろ ──オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

終わりなき日常を生きろ ──オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

 

オウム事件直後に出版された『終わりなき日常を生きろ』は、1990年代に生きる「若者」の一つの断面を描いた社会学者・宮台真司出世作だ。

 

輝ける未来もハルマゲドンも来ることはない、ただ「終わりなき日常」というべきのっぺりとした日々が続くだけ……戦後日本の通奏低音としての「終わりなき日常」はアプレゲール団塊の世代を経て半世紀近く後の世代へと受け継がれていった。キーワードは東西冷戦、高度経済成長、全共闘、しらけ、サブカルチャー、新人類、オタク、そして新興宗教ブルセラ援助交際……文明の大きな物語はリアリティーを失い、より個人的な小さな物語へと時代は急速に収斂していった。三島由紀夫『青の時代』から『終わりなき日常を生きろ』までの距離は存外に短い。 

日本でまずそんな「終わりなき日常」に揺さぶりをかけたのが阪神淡路大震災オウム真理教事件だった。1995年、今から25年前のことだ。

さらに2001年の同時多発テロ以降のテロとの戦いは、湾岸戦争以来のイスラム世界と欧米社会との不協和音に日本を本格的に巻き込むことになった。東西冷戦構造と共に崩壊したはずの大きな物語が日本列島にくっきりとした陰影を落とし始める。北朝鮮の核化はその幕間喜劇を見るようだった。
そして2011年の東日本大震災福島第一原発事故。私たちに「日常の終わり」そのものを鋭く付きつけることになった。

今年の新型コロナウイルスパンデミックは、より(語弊はあるが)〝カジュアル〟な形で私たちの生活の中の「日常の終わり」を炙り出すことになった。

不安に押しつぶされて悲鳴のような雑言を喚き立てる人。敢えて極端な話をして自分と他人の距離を測ろうとじたばたしている人。政府やWHOや中国などへの敵視で平常心を保つ人……先月来、SNS越しに見えてくる崩れた日常の一つ一つはつらく、痛々しく、しかも滑稽だ。

「ひとは大人になっていく過程でそこそこの自分とそこそこの世界に耐えていくことができる。それを阻む装置を、観念であれモノであれ制度であれ、徹底的に破壊しつくすことが、僕の目的なの。」(『終わりなき日常を生きろ』巻末対談)

 

 今回のコロナ禍には、まちがいなく「終息」が来る。しかし、それですべてが元通りになるとは限らない。「そこそこの自分」が安住できる「そこそこの世界」すら確保できない日常を私たちは生きていかなくてはならない。残念ながら、今や宮台氏の破壊活動は若干見当違いの蟷螂の斧でしかない。ほんとうに残念ながら。