プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

涅槃からの声、あるいは類型的な彼ら

とうに涅槃をすぎて (徳間文庫)

とうに涅槃をすぎて (徳間文庫)

 

世界は相変わらず19世紀である。だからいまだにダサイ小説が売れる。日本映画は相変わらずダサイ。マンガだってダサイ。インテリの悩みはここに尽きる──「どうして自分以外の人間はみんな類型的なんだろう?」

インテリが一流と二流に分かれるのはこの先である。類型的に取り囲まれてしまった自分の中だけに入っていくのが二流、「ヘエーッ!?」と言って、虚心坦懐に面白がるのが」一流。

もうおわかりだろう。山崎豊子の作中人物が類型的だと言って非難することが二流の証明でしかないことが。はっきり言って人間というものはことごとく類型的なものなのだから、人間を類型でとらえられない人間というのは、ダメなのよ。

橋本治『とうに涅槃をすぎて』「インテリの裏本──山崎豊子」)

 

“表現”というものにとらわれまくっていた20代の頃、何度も貪り読んだ1冊。

私はインテリではないが、類型を恐れる心がダサイということはよくわかる。類型を怖れ、避けたいという表現者は、結局、自らの自意識と対峙する段階に進めていないというだけだろう。橋本治がこの本で取り上げている山崎豊子山田風太郎有吉佐和子などは、自分の意識から自在に出入りしながら、作中人物を動かせるし、だからこそ他人の心を浸食するドラマを書ける。

 

安倍晋三小泉進次郎の言葉を嗤うのは簡単だし、まあ、嗤われても仕方ない部分が大いにあることも事実だ。しかし、彼らを嗤う大衆は結局、バカバカしく類型的な彼らの言葉に復讐される。現政権の支持率はその一つ証左だし、いま、バカにされまくっている小泉ジュニアは、案外と恐ろしい政治家に成長するんじゃないかと僕は感じているところだ。

橋本治の意見が聞きたいな。