プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』(池内紀)雑感

 

ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか (中公新書)

ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか (中公新書)

 

本書の著者である池内紀フランツ・カフカギュンター・グラスの翻訳で知られる独文学者で歴史の専門家ではない。これら20世紀文学を扱った文学者の宿題として「ヒトラーの時代」を書かねばと言う思いが本書の執筆動機だという。

出版以来、事実関係や翻訳の細部に関する誤りが近現代史専門家から指摘され、芳しくない話題で沸騰してしまった。だが、私は面白く読んだ。「日本人カメラマン名取洋之助」のエピソードや「亡命ハンドブック」の話は本書で初めて知った。

第一次世界大戦後、ベルサイユ条約によりヨーロッパ各国に骨抜きにされたドイツ・ワイマール共和国には国民の不平不満が渦巻いていた。政権は短命に終わり、経済政策はことごとく功を奏さず、英仏などへの戦後賠償が国家財政に重くのしかかっていた。

そこに現れたのがアドルフ・ヒトラー国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)だ。ゲッベルスによる広報活動も功を奏して、合法的に政権の座についたヒトラーは失業者対策を推進し、国民所得を倍増させ、公共工事アウトバーン建設など)を拡大し、安価な国民車フォルクスワーゲンを提供した。動物保護法、森林荒廃防止法など環境保護やタバコの害など公衆衛生にも熱心だった。船旅のプログラムで労働者に安価なレクリエーションの機会も提供した。ヒトラーの評伝を書いたジョン・トーランドは、もしヒトラーが政権4年目に死んでいたら、ドイツ史上もっとも偉大な人物のひとりとして後世に残っただろうと述べている。

わが国で10年ほど前にタレント弁護士によって大阪で始まった一連の〝維新〟騒動や、今回の参院選での元タレント俳優による〝新選組〟ムーブメントなどは、期せずして国民の不平不満を点火剤とするナチスの手法を踏襲している。しかし、ネット時代においてその仕掛けは容易に見透かされてしまうので、いまのところ国家を席巻するほどの爆発的な広がりにはならないだろう。ゲッベルスやレーム、ヒムラーなどの有能な人材もいない。

ただ、安心はできない。社会の不平不満を弁舌巧みに一刀両断する”カリスマ”的存在が現れると、長年の不遇をかこつている(と自分で信じ込んでいる)人々が一種の熱病に罹ってしまったかのように、いい加減な甘言に惑わされてしまうのは現在も同じだ。それなりの人生経験や教養があると考えられる人ですらその中に含まれる。

本書を通して、ナチスの甘言に最後まで乗らなかったマレーネ・デートリッヒの矜持を持ちたいものだと意を新たにする。