プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

あいちトリエンナーレ騒動雑感

 

www.huffingtonpost.jp


 あいちトリエンナーレ「表現の不自由展 その後」をめぐる騒動に対する私の印象は「ダサい奴ら同士のコップの中の最高にダサい戦争」ということである。

 

 日本における「表現の自由」について考える時、私が立ち返るのは、2015年、パリで起きたシャルリー・エブド襲撃事件だ。イスラム過激派テロリストの銃撃により編集長、コラムニスト、風刺画家ら12人が死亡し、20人が負傷した。

 シャルリー・エブドは、フランスのリベラル左派寄りの風刺新聞で、政治・社会批判の風刺画が一つの売りである。風刺の標的は極右(政治的原理主義)のみならず、あらゆる宗教の原理主義に及んでおり、イスラム原理主義への批判も苛烈なものだった。かなりお下品なネタも多く、原理主義者の神経を激しく逆なでしたことは想像に難くない。

 

 この事件が報じられてまもなく、日本のリベラル寄りの識者が次々にメディアでコメントを発したが、少なからぬ人たちが、程度の差こそあれテロリスト側に同情した言葉を述べているのに驚愕した。その根拠はといえば、概ね英米仏などの大国の横暴という例のお題目だ。私は自分がリベラリストだと思っているが、自由主義の最も基本的な原理である「言論の自由」を真っ向から踏みにじるテロリストの所業に1ミリでも同情する馬鹿者と同類に思われたくないと思った。そんなのリベラリストではない。以来、特にネット上ではへんなポジショントークに巻き込まれないようにあえてやや右寄りっぽく振る舞うように心がけている。

 

 「表現の不自由展 その後」の騒動前の印象といえば、「あいかわらず津田大介ってダサいな」と言うことだった。赤瀬川原平「表現の不自由展」を下敷きに、80年代の富山県立近代美術館「天皇コラージュ事件」をモチーフにした作品などを出展したこの企画展だが、慰安婦少女像の展示を含めて「表現の不自由」というより「表現技術の不自由」じゃないかと思わせる底の浅い展示と思えた。私個人は昭和天皇の写真を燃やそうが、いたずら書きしようがかまわないと思う。昭和天皇なんて歴史的人物なんだから、歴史教科書の織田信長足利尊氏の肖像に落書きするのと一緒なんだから。そういえば70年代末セックス・ピストルズの有名な現役女王の肖像コラージュがあったが、あれはデザイン的にもシャープでメッセージ性が高かった(ちなみにこの件ではデザイナーとジョニー・ロットンが右翼青年に襲撃されて負傷している)。

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 あいちトリエンナーレのケースでは、元ネタ処理があまりにもヒネリがなく「あなたの政治的表現とやらはこの程度のモノなの?」といわれてしまう程度の稚拙な表現だった。しかも芸術監督の津田大介好みの特定の政治ポジションからの表現ばかりだったので強くクレームが入ったら引っ込めざるを得なくなった。引っ込めるところまでを含めて表現じゃないかといううがった見方をする人もいるが、津田芸術監督の記者会見を聞くとそれはなさそうだ。単に考えが足りなかっただけ。ダサい。でもダサいというだけで今回の騒動に関して彼に責任を負わせるのはどうかと思う。

 もう一人のダサい奴が河村名古屋市長だろう。こいつはこれまでにも数々の妄言を振りまいてきたが、今回もその真骨頂ともいうべき、真正面からの見事な表現封殺チョップを繰り出してきた。あまりにも馬鹿げていて絶句である。名古屋市民はなぜこの人を市長として選び続けているんだろう。いや、もちろん青島幸男以来、面白知事を選び続けている東京都民という負い目はありますが、マジ知りたいよそのわけを。地顔からして「困った困った」と言っているような大村愛知県知事も、今回は心底困ったんだろう。でも、津田大介を芸術監督にした責任者はあなたなんだよね。

 

 そこにいくと自民党リベラル派の良心とも言うべきこうした発言には救われる。

 

 

自民党主流が強すぎて最近は元気のない宏池会だが、安倍政権後を見据えてもっと頑張ってほしいと思う。

 

そういえば一昨年にこんな騒ぎがあった。

www.sankei.com



 この事件もあいちトリエンナーレ騒動と基本構図は同じだ。このときにリベラル派の論客が講演中止に対して言論封殺の批判を投げかけたかと言えば、寡聞にして知らない。今回の騒動を受けて百田氏もこんなコトを言っている。

 

 つい最近には自衛隊の展示をしようとした自治体に対して、日本共産党系の婦人団体が組織的な圧力をかけてやめさせた事案もあった。こちらもリベラル勢はダンマリもしくは擁護だ。すなわち、あいちトリエンナーレ騒動についてだけ大騒ぎするのは、単なるポジショントーク、仲間内のお祭り騒ぎに過ぎないと言うことだ。

 表現の自由とは、自分が言いたいことを言う自由であるとともに、他人の表現を、いくらそれが不愉快で自分の信条とかけ離れても、表現する機会だけは容認する市民社会の度量のことだ。シャルリー・エブド襲撃事件で、テロリストにシンパシーを持ってしまう日本のリベラルさんたちにその期待は持てないし、そういう二枚舌リベラルって最高にダサいと思う。 

 そして今回のいちばんの問題はガソリンを持って現場に押し掛けると匿名で脅せば、公的な展覧会の展示内容ですら変えさせられるという前例を作ってしまったことだろう。テロリストに屈してしまった。

 

 いや、ほんと、なにもかもが最高にダサい顛末だ。