プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

アゴタ・クリストフ『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』にやられる。

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

読もう読もうと思ってなかなか読めない本を出張の機会に読むことが多い。出張中はほとんど残業というか、夜の用事がないのでむしろ読書が捗るというわけだ。

 

今回はこのアゴタ・クリストフ著『悪童日記』、そして続編である『ふたりの証拠』と『第三の嘘』の三部作。もう10年近く前から読もうと思っていて、その間に映画化もされた。

悪童日記(2019年1月26日記※再掲)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

 

<大きな町>に住んでいた母親が双子を連れて<小さな町>に住む実母(双子にとっては祖母)のもとを訪れ、二人を託す。夫を毒殺したという噂がある祖母は魔女と呼ばれており、不潔で、吝嗇。子供に対しても働かない限りは食事を一切あたえない。祖母の家の部屋には占領軍の将校が下宿している。隣人には兎口の女の子と目と耳が不自由らしきその母がいる。生と死、さらに性の不穏な匂いがする中を双子たちは才覚を発揮し、協力しながら逞しく生き抜いていく。そして〈解放者〉たちの到来….

 

 

戦時下と戦争が終わった後のシビアな状況を生き抜く双子の男の子の物語。舞台となる国や街の具体名は出てこないが、おそらく作者が子ども時代を過ごしたハンガリーオーストリアとの国境付近の街だろう。といっても反戦小説ではないと思う。原題のLe Grand Cahierというのは「大型のノート」というような意味で、小説そのものが男の子たちが自分の日常を日記のように記した短い断章(文庫本で4~5ページ)が重ねられて物語が進行する。日記にはわかりやすい叙情や主観が一切見られない。二人は作文に当たってひとつのルールを厳格に守る。それは「作文の内容は真実でなければならない」というルールだ。出来事がその起きたとおりにたんたんと記される。….はずなのだが、読者は読む進むにつれていつの間にか行間のドラマのうねりに翻弄されていく。悲惨な出来事が連続するにもかかわらず、最後には爽快感さえ感じる不思議な読後感。見事としかいいようがない小説だ。Le Grand Cahierは「偉大な記録」とも解釈できるかもしれない。

 

 

作者はハンガリー動乱の際に夫と西側に亡命した女性で、詩や劇作を同人誌に発表するなど文学活動に勤しみ、母語ではないフランス語で書いたこの作品が初めての小説作品。2011年に亡くなるまで三部作の他、やはりフランス語による長編と短編集の2冊を出している。

もうほんとうに、今まで読まずにいて大後悔。春までに出張案件が続くので、続編2作も読まねばなるまい…。

 

『ふたりの証拠』(2019年2月4日記)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

 

 

というわけで2作目をKindle版をダウンロードして読み始めたら止まらなくなり、途中、録画したテレビを見たりしたが、夕飯前に読了。まいった。前作で一人故国に取り残された双子の片割れが、オトナになるプロセスを三人称で描いている。前作『悪童日記』が一人称の断章60編で構成された作品だったので、叙述スタイルはまったく変えており、しかも名無しだった登場人物に名前が与えられている。双子の片割れはリュカ(LUCAS)、国境を越え西側に行ったのはクラウス(CLAUS)。なんとアナグラムな関係。リュカは社会生活を営み、子どもを育て、女と寝る。最後の8章で胸が引きちぎられるような悲劇。そしてエピローグで時間が早回しされ、読者は時空の果てに放り込まれ途方に暮れる。

完結編である次作『第三の嘘』のタイトルに恐ろしい予感がするばかりである。すぐに読まねばなるまい…。

 

『第三の嘘』(2019年2月12日記)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

 

 

というわけで『第三の嘘』Kindle版をダウンロードして読み始めたら止まらなくなり、たちまち読了してしまった。またもや意想外の展開だが、いや実はこうなるんじゃないかという予感はあった。そしてなぜこの三部作が僕の心を鷲掴みにしたかということも、この完結編を読んでよくわかった。僕は小説に関しては基本的に純粋に作品論的にしか語りたくないが、どうしてもそうはいかない小説もある。この作品はその一つだ。

ざっくり言えば、この三部作は故郷の土地と家族と言語からむりやり引きはがされた者が、フィクショナル奈世界に救いを求めて「嘘」を構築していく話である。主人公たちは4歳にしてそうした憂き目を見る。主人公の双子「リュカ」と「クラウス」は、僕にとって 村上龍コインロッカー・ベイビーズ』における「キク」と「ハシ」、大江健三郎万延元年のフットボール』の「蜜三郎」「鷹四」に比定したくなる存在だった。

そして私自身も4歳の時に親兄弟と家からしばし引きはがされて、フィクショナルな物語=嘘の世界に救いと楽しみを求めていた経験がある。幸い私の場合は周囲には好意と同情があふれていたし、それはそれほど長い期間ではなかった。おかげで嘘の世界に拘泥せずにすんだが、振り返ってみるとやはり何らかの心の傷は負っているだろう。それが私の個性の一部分でもあるわけだが。

―――――――――――――――――――――――

 

というわけで今回、この三部作を読みながら、私は自分の子ども時代と現在を頻繁にタイムスリップしていた。それはビルから身を躍らせるようなスリリングな経験であり、深い悲しみと悔恨を閉じ込めた柔らかいカプセルをつつくようなもどかしい時間を過ごすことでもあった。母の実家に近い長野県のいろんな町を旅しながら読んだということも、得難い思い出になった気がする。小説に関しては、すれっからしになっている私だが、久しぶりに自分の心の柔らかい部分をさらけ出しながらの読書体験となった。