プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『評伝 管野須賀子 ~火のように生きて~』を読む。

評伝 管野須賀子 ~火のように生きて~

評伝 管野須賀子 ~火のように生きて~

 

高校時代の日本史の授業で、自分が関心ある日本史上の出来事を調べて発表するという課題があり、僕は大逆事件を選んだ。当時、マルクス社会主義への興味が強くなっていたからだと思う。確か「足尾鉱毒事件」とどっちにしようか迷った記憶がある。


この事件は戦後になって明治政府によるフレームアップが言われるようになった。政府はこの事件の発覚を受け、当時増えていた社会主義者無政府主義者を一網打尽にしようと考え、事件の発覚〜容疑者逮捕〜裁判の過程で少なからぬ捏造もあったとされている。

高校生だった僕も、調べながら幸徳秋水や大石誠之助らが非常に気の毒と感じたが、「菅野スガ」に関してはあまり同情しなかったことを覚えている。しかしその「女」の妄執に裏打ちされた個性には強烈に惹きつけられた。

資料として書物からうかがえる菅野の抱えるルサンチマンは、この天皇暗殺の企てに大きな役割を果たし、幸徳らを巻き込む原因を作ったと高校生だった僕には思えた。魅力的な女性だが、刑死にふさわしい刹那的な生き方じゃないかと。

 

実はその印象は50代になった今、本書を読んでもそれほど変わらなかった。菅野スガ=管野須賀子は、明治という変転の時代の中で自らのルサンチマン社会主義無政府主義の“イメージ”の中に溶かし込み、政府による大逆事件のフレームアップに格好な口実を与えてしまった。彼女の意志は強烈だが、その考える社会の理想はひじょうにふわふわしたものであり、その政治活動は挫折を運命づけられているとしか思えない。

著者は菅野への深い愛情と冤罪を晴らしたい熱意を持って本書を書いており、そのことは本書に温かい読み心地を提供しているが、一方で菅野須賀子への人物批評がやや生ぬるくなっているとも感じられる。

史書としてはやや物足りない所以である。