プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『万引き家族』を見たよ。

 

 

f:id:indoorffm:20180620155102j:plain

gaga.ne.jp

 

素晴らしく美しい映画でした。


この映画から受けた感銘の詳細を具体的に語ると未見の方々にネタバレしてしまうので、そして多くの方にぜひ真っ白な状態でこの映画を見ていただきたいので、厚い靴下の上から水虫を掻くようなまどろっこしい文章を書こうと思います。

一言で言えば、この映画は犯罪で結びつく「家族」の形成と崩壊にいたるファンタジーです。

「ファンタジー?」と疑問に思う人もいるかもしれません。「社会の貧困を描いたリアリズムの映画じゃないの?」。それが違うのです。

巷ではネトウヨが「犯罪を礼賛して日本の恥を晒すな」、対するパヨクが「アベ政治の悪を糾弾」とか言ってますが、どっちも実際に映画を見た人の感想とは到底思えません。犯罪や貧困は重要なモチーフではありますが、この映画が描こうとしているものではありません。ここで描かれるのは「家族」であり、それを構成する「人」です。

 

ハフポスト日本版の取材に応えて是枝監督はこんなふうに言っています。

「映画の世界でも実際の世の中でも、僕の価値観を体現した人ばかりが出てくるのは違うから。初枝のようなすごく保守的な人がいたり、そうではない共同体に希望を見出す信代のような人がいたり、何にも考えていないおっさん(治)がいたり...。そうやって多様な人がいるのが自然で、その方がいいと思っています。それを映画の中で描いているつもりです」


映画の画面中に貧しい人たちの生活情景の中にあふれる汚いモノがリアルにたくさん描かれていますが、映画を見終わった時に「なんだかとても美しいものを見た」という印象だけが残ります。「なんだろう、この気持ちは?」です。

登場人物も犯罪を犯罪とも思わぬろくでなしばかり。タイトルの「万引き」だけではなく、年金詐取やソフトな強請、車上荒らし、誘拐、死体遺棄など犯罪オンパレードでとんでもない「家族」です。ところがそこに一人の少女が闖入すると、彼女を中心としたあたたかくやさしい炎が、ぽっと灯るのです。そしてそのほのかな明かりで照らされたとんでもない「家族」たちの表情には神々しさが宿っていて、まずこの部分で映画を見る者の心が揺さぶられます。「なんだろう、この『家族』は?」と。


そう、ここが映画の核心でもあるのですが、「家族」はあくまで括弧付きの「家族」でしかありません。この監督は『誰も知らない』『そして父になる』『海街Dialy』『海よりもまだ深く』など、好んで家族の問題を映画の大きなテーマに選んできましたが、『万引き家族』はその集大成であり、これまで描いた全てを注ぎ込んだ「家族の神話」のようだと思いました。カンヌの欧州人たちの心の響いたのもそこら辺りの神話性=ファンタジーだったんじゃないかと愚考します。


絆とか愛とか断絶などの安っぽい言葉で語られがちな家族関係ではなく、人の心の中に染みのように広がるどうしようもない関係性の宿痾。社会と対峙する中でその関係性がファンタジックに再構築されていき、やがては不可避であるあっけない崩壊にいたる時間軸がこの映画=神話の基本的な枠組みです。

 

見終わってこの「家族」=神々たちに「共感」を抱くかというと、まったくそんなことはありません。ですが、ラスト近くで警察に捕まった(つまりファンタジーの終わり)「母」である安藤サクラが微笑みさえ浮かべながら取調官の質問に答えるセリフに腸を掴まれたような思いを抱く人は少なくないでしょう。僕は、その瞬間、彼女が迷える民を苦悩から救済する観世音菩薩に見えました。神じゃなくて仏ですけど。また親鸞の「悪人正機説」とはこういうことかと膝を打ちました。こちらは阿弥陀如来ですが。欧米人だとマグダラのマリアを感じるかもしれません。


子役を含めたキャストも安藤サクラを筆頭に素晴らしく、演技を超えた演技を見せてくれます。樹木希林という女優をここまで魅力的に見せる映画を作れるのは是枝監督ぐらいでしょう。子どもに近い低い目線で撮影されたカメラワークもとても効果的。そしてストーリーや設定を決して説明せず、要所要所で映画を見る者に問いを突きつける挑戦的な脚本もこの映画の文学性・神話性の醸成に大きな役割を果たしています。カットアウトされる最後のシーンは、黙示録のように衝撃的です。


21世紀の東京で目に見えない「美しいもの」を手っ取り早く見たいなら、とりあえずこの映画を見るしかないでしょう。でも、それは決して目で「見る」ことができないものなのですが。