プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

ミカドの肖像

 

 

天皇家の戦後は、皇太子の訪欧(昭和28年3月~10月)、そして浩宮の留学と英国詣でがつづいている。欧米からみると、裕仁以来の天皇家の欧化は彼らの安全保障にとって好ましいものと判断されてきた。

ある意味では天皇家自身も、京都に閉じ籠もる方策の別の極として、アングロ・サクソンの王家と結ぶことで安全保障が得られることを知っている。

(中略)

僕は「天皇安保体制」という明文化されざる構想のようなものが潜在していると疑い始めている。

猪瀬直樹ミカドの肖像』~禁忌x n 「天皇安保体制」幻想~より)

ミカドの肖像 (小学館文庫)

 

幕末、頑強に開国に抵抗し続けた孝明天皇が急死する。死因は天然痘とされているが、毒殺疑惑というものが存在する。その黒幕は岩倉具視であり、実行グループのリーダーが伊藤博文だという。五百円札と千円札、昭和高度成長期のお札コンビ。もちろん、毒殺疑惑はあくまでも疑惑に過ぎないかもしれない。英国の外交官アーネスト・サトウがその疑惑を書きのこしている。

噂によれば、天皇陛下天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。
アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫))

 

後の明治政府のリーダー達(当時は一種のテロリスト)にとって、あのタイミングでの孝明帝崩御は幕府に対する巻き返しの大きな契機となったことは事実であろう。明治の国家天皇制というのは、まさに現実に即したソフィスティケイトされた攘夷安全保障の枠組みづくりといってもいいのではないか。その枠組みのシンボルの一つとして村田蔵六こと大村益次郎が遺品のようにこの国に遺していったのが東京招魂社、すなわち今の靖国神社であるが、百数十年を経て、それが安全保障上の瑕疵として浮上してくる。

現在も皇族の英国留学は継続しているし、近年は脱学習院的な流れから、女性皇族の国際基督教大学(長老派)への進学が続いた。今上天皇譲位を含めて、猪瀬さんの言う「天皇安保体制」はますます強固なものになっていきそうな気がする。