プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

ポドルスキの活躍を見て2006年ドイツ・ワールドカップと中田英のことを考えていた

赤目四十八瀧心中未遂

こういう私のざまを「精神の荒廃。」と言う人もいる。が、人の生死には本来、どんな意味も、どんな価値もない。その点では鳥獣虫魚の生死と何変わることはない。ただ、人の生死に意味や価値があるかのような言説が、人の世に行われてきただけだ。従ってこういう文章を書くことの根源は、それ自体が空虚である。けれども、人が生きるためには、不可避的に生きることの意味を問わねばならない。この矛盾を「言葉として生きる。」ことが、私には生きることだった。

車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂』)

  

Jリーグの一員となった元ドイツ代表ポドルスキの活躍を楽しみながら、彼が若々しく躍動していた11年前のドイツ・ワールドカップのことを思い出す。あの時彼はクローゼと2トップを組み、ドイツは3位にとどまったが、C・ロナウドやメッシとともに最優秀若手選手賞に輝いた。

一方、
日本代表はオーストラリア相手に信じられないような逆転負け。クロアチア相手にことごとくチャンスを活かせず、予想されたことではあるがブラジルに横綱相撲を取らせた。

また、個人的に応援していたメッシを擁するアルゼンチンとジェラードが活躍したイングランドがどちらもPK戦で敗退して呆然としていたら、絶対に決勝までいくはずだったブラジルまで敗退。クロアチアオーストラリア、日本、ガーナと格下ばかりと試合をしていたにもかかわらず(いや、それが原因だったのかも)、ロナウジーニョは無得点に終わってしまった。ああ、と天を仰ぐ暇もなく、中田英の現役引退発表。ジェットコースターのように世の無情を感じる日々であった。この11年間、僕はさまざまな折に触れてドイツ・ワールドカップにおける中田英の孤独について考えてきた。

サッカーとは、ボールを使った喧嘩である。だからこそ、あんなにファウルの基準が厳しいのだし、オフサイドという一種の理不尽がまかり通る。ルールとは意味だ。空虚な喧嘩を通して、何か価値あるモノを生み出すための。それが幻想でしかないとわかっていても、人はボールを蹴り、走り、ゴールに向かう。ゴールに何があるという訳でもないし、勝利に意味があるかどうかも疑わしいところだ。しかし、その意味を問わねば、生きていくことはできない。人々はそこにロマンや人生の意味を投影し、皮肉屋はそれを矛盾であり、愚かであると嘲笑するかもしれないが、サッカー選手にはそれが当然の試練、いや通過儀礼である。逃げ場はない。しかし、中田英以外の日本代表選手には逃げ場があったように感じた。その後、そのことに気付いた当時の日本代表選手はベンチにいた遠藤だけだったように思う。

 

ドイツ・ワールドカップにおける中田英の孤独は、ずっと年上のモノカキである僕にほんとうにいろいろなことを教えてくれた。そして、なぜここで赤目四十八瀧心中未遂』なのかは、書いている僕自身がよくわからない。