プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

ビートルズ来日後、妹の死により家族は分解し、ポールの才能が爆発した。

道路でやっちまおうぜ。誰も見てないし。道路の上でやっちまおうよ。

 


Why Don't We Do It In The Road - Paul McCartney w/ Neil Young @ Desert Trip, Coachella, 10-15-16

 

昨年はビートルズ来日50周年だった。シェイスタジアムのライブ盤もCD化・映画化され、仕事場のBGMであるFMラジオで、6月頃から年末までビートルズナンバーがしょっちゅう流れていた。でも、まったく飽きない。で、あらためてビートルズの曲はラジオから流れてくるのを聴くのが、いちばん具合がよろしい、ということにあらためて感じ入った。当然ながらジョージ・マーティンを中心としたビートルズチームはそういう風に音作りをしていたわけである。だから、基本的にビートルズはモノラルで聴くのが正しい。でもまあ、そんなことはどうでもいい。来日した1966年、私は4歳半だったので当然ながら武道館には行っていないが、来日騒ぎはなんとなく覚えている。確か、NHK朝のテレビ小説で「おはなはん」をやっていた年だ。すでに高度経済成長は始まっていたが、繁華街に傷痍軍人の姿を見かけるなどまだ戦争の匂いがあちこちに残っていた。4歳の私はビートルズの「イエーイエー」よりベンチャーズの「テケテケテケテケ・・・」の方が子供心にインパクトを感じていた気がする。そしてビートルズが日本を去っておよそ2ヶ月後に、双子の妹のうち一人が2歳でこの世を去った。私はその意味がよくわからず、告別式の日、家のリビングルームにしつらえられた祭壇や豪華な袈裟をまとった僧侶が来たことで、なんだかウキウキしてしまったのである。妹は死んだが、ほとんど同じ顔をしたもう一人が生きていたので、悲しさもほどほど、といったところだったのかもしれない。だが家庭に与えた影響は甚大で、その後、我が家はしばらくの間、空中分解した。また、ビートルズはこの年でコンサート活動をやめ、翌年、バンドの立役者であったブライアン・エプスタインが不可解な死を遂げた。上に引用した曲は、来日2年後の1968年に発表された「 THE BEATLES(通称:ホワイトアルバム)」に収録されたポール・マッカートニーの単独作で、上の歌詞を何度も何度も繰り返しシャウトしまくるパンクっぽいブルースというべきナンバー。ドラム以外の楽器は自分で演奏している。当時、メンバー中でも一番とんがっていたのがポールで、同アルバムにはポール作のヘヴィメタルな「ヘルター・スケルター」も収録されている。ボードヴィル調の「ハニーパイ」、生ギター弾き語りの名曲「ブラックバード」「マザー・ネイチャーズ・サン」もこのアルバムで、まさに才能爆発という感じ。ヨーコと出会ったレノンは、やや停滞していた。いまでは亡くなった元妻リンダの影響でベジタリアン&健康志向のポールだが、当時はラークを一日2~3箱空けるヘヴィースモーカーでもあった。

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4〜5枚目ぐらいに買ったビートルズのレコードがこれ。来日公演のステージ写真をあしらった日本独自シングルカット。