『ローマ法王になる日まで』を見たよ。
フランシスコは開明的なPopeとして、ローマ教皇就任以来、クリスチャン以外からの人気も高い。イスラムや正教会のトップとも気軽に面会するし、ロックスター教皇として米国の『ローリングストーン』雑誌の表紙も飾った。僕もこの人のことはこれまでの教皇とは違った目で見てきた。
一方でアルゼンチン時代に、一般市民や宗教家を拷問・処刑した軍事政権に対する態度が甘かったとか、やはりカトリックなので妊娠中絶や同性愛に対する態度は頑迷だったという話も耳にした。
では、実際はどのような人なのだろうか? そんな興味もあって映画館に足を運んだ。
映画ストーリーは、後に自分がローマ教皇となるなんて想像もできなかっただろう青年ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが、ブエノスアイレス大学で化学を専攻する学生だった1960年から始まる。僕が生まれる前年のことだ。
亡命中のペロンが大統領に復帰することを願うペロニスタでもあったベルゴリオは、やがて神に仕えることを決意し、大学の恩師の忠告に従って、付き合ってた女性ともきっぱり別れ、イエズス会に入会。その決意までの経緯はあまり明確に描かれていない(そこはこの映画の最大の不満点)。ちなみに大学の恩師であるエステルという女教授は、この後のストーリーにも密接に関わってくる。
ベルゴリオは、イエズス会士として宣教のために日本に行くことを希望していた。彼は「沈黙」の時代を乗り越えた日本のキリスト教に対する関心が深かったのだ。しかし、教会はおそらく彼の将来性も踏まえてその希望を却下。神学校教授などを経て、30代にしてアルゼンチン管区長に出世した。
しかし、時代はペロンの独裁政治とその後のビデラ軍事政権による圧政、いわゆる「汚い戦争」の時代に突入する。『沈黙』という作品では信者に対する拷問がことさらクローズアップされていたが、この映画では反政府派のキリスト者に対する射殺や拷問があたかも日常の出来事のように淡々と描かれる。大学の恩師エステルも弾圧の犠牲となるのだが、その殺され方があまりにも惨くて映画館の暗闇の中で呻きそうになった。
映画はベルゴリオ管区長がいかに軍事政権の残酷な手口に抗ったかを描いていく….いや、どちらかというとさまざまな弾圧と反政府勢力双方に翻弄される姿が描かれる。宗教者として、必ずしも正しい道を選ぶことができない苦悩が描かれる。過酷な運命にもみくちゃにされ、しだいに疲弊していく若きキリスト者が描かれる。その無力な姿は意地悪な見方をすれば優柔不断とさえ思える。神の「沈黙」ではなく、聖職者の「沈黙」。
やがて軍事政権は自壊、終幕を迎えるのだが、失意のベルゴリオはドイツで神学を学び直すことになる。そして、その地で「結び目を解くマリア」の絵と出会う。ここは胸が詰まるシーンだ。無宗教な僕が思わず「洗礼受けようかな」という考えがちらっと頭をかすめてしまうほどに。この映画のクライマックスシーンであり、映画はまだ続くのだがその後の教皇への道のりは、付け足しのエピローグに過ぎない。映画を見るものが、クールダウンして映画館の外の現実に戻るためのストーリーだ。
現実のフランシスコは、教皇就任後、バチカン銀行を舞台にしたマネーロンダリングなどの金融犯罪撲滅の命を下し、聖職者の性的虐待についても厳格な対応を勧告した。その一方で、世界の指導者に地球温暖化防止を呼びかけ、アメリカとキューバの国交回復の仲立ちを務め、さらに反対していたはずの同性愛についても「もし同性愛の人が善良であり、主を求めているのであれば、私にその者を裁く資格などあるだろうか?[If someone is gay and he searches for the Lord and has good will, who am I to judge?]」とも発言している。妊娠中絶に関しては変わらず反対し続けているようだが、破門にはせず赦しを与えるというスタンスを示しているようだ。