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プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

奇妙な味のタイトル3題〜『夫のちんぽが入らない』『聲の形』『葛西善蔵と釣りがしたい』

 レコードやCDのジャケ買いがあるように、小説本にはタイトル買いがあると思う。

 たとえば、高校時代に読んだ『芽むしり仔撃ち』や『性的人間』『万延元年のフットボール』『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』といった大江健三郎作品はタイトル買いだった。そしてこの頃までの大江作品は、読み辛い文体ではあったが概ね期待以上の中身であった。村上春樹が大江作品をパロって『1973年のピンボール』という作品を書いた時は、「やるな!」と思った。決して万人に勧める傑作とは言わないが、今でも僕のお気に入りの作品である。中身と共にタイトルに奇妙な味を求めるのが私好みであるようだ。

 

 連休前に『夫のちんぽが入らない』(こだま 著/扶桑社)という話題作を読んだ。ほんとうは連休中に読むはずだったのだが、冒頭をちらっと読み始めたら止められなくなり、寝る時間を削りに削って、遂にしまいまで読んでしまった。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 これはすごい小説だなと思った。珍妙なタイトルだが、読み終えるとこれ以上この小説にふさわしいタイトルはあり得ないと言うことを得心してしまう。しかし書店で買うのには勇気がいった。まあ一応、タイトルの露骨さを軽減する洒落た(&タイトルが読みにくい)装丁になってはいる。

 小説の内容説明という無粋は避けるが、「ちんぽが入らない」という事実は主人公=語り手の「性」だけではなく、「生」そのものの困難性を表している。なにせ心を許した「夫」のものは入らないが、行きずりの男のモノは入るのだから…。「人と人のわかり合えなさ」と「わかり合いたい関係性」。その間で引き裂かれ、お互い精神を病みながら、一つ一つ積み木を重ねてお城を造っていくように、夫との姉妹のような夫婦関係を築いていく……。

 「まてよ、この小説はつい最近読んだアレと同じテーマを別の位相から書き上げたモノじゃないのか」。そう思ったのは、読後まもなくのことだった。

 「アレ」というのは小説ではなく、『聲の形』(大今良時 作/講談社)というマンガ作品だ。聾唖者とイジメという陰惨な題材を取り上げたこの作品は、まだ未熟な10代の少年少女たちが「わかりあうことの困難さ」に直面した時に味わう孤独や絶望、さらにそこからの再生の願いと希望を大胆だけれど細やかなストーリーテリングで描いた優れた作品である(アニメ化もされたがそちらは未見)。

  この作品ではヒロインが聾唖者である設定が、「ちんぽが入らない」困難性に相当する。作者インタビューによると、作品タイトルに「聲」という一般的ではない旧字を当てたのは、この漢字が「声と手と耳」が組み合わさってできており、「気持ちを伝える方法は声だけじゃない」という意味を込めたいと思ったからだそうだ。奇妙とまでは言えないかもしれないが、「聲」という文字への思い入れが、この作品のタイトルに「声」では持ち得ない独特の誘引力をもたらしたことは確かであろう。

 『聲の形』は小学校6年(11〜12歳)から18歳(但しエンディングは20歳)までの話であるのに対して、同じ「わかりあえなさ」を描いた『夫のちんぽが入らない』は主として大学入学(18歳)〜38歳の20年間の物語である。内容的にまったくつながりはない別の作品だが、その期せずしての〝連続性〟が、私は(ヘンな言い方ではあるが)なんだか少しうれしく思った。

  ついでにもう1冊、奇妙なタイトルの本を紹介したい。フライフィッシング専門誌の編集者が書いた『葛西善蔵と釣りがしたい―こんがらがったセカイで生きるための62の脇道』(堀内正徳/フライの雑誌社)である。著者の目が捉えたフライフィッシングを中心とした釣りを楽しむ人々の生態を屈託のある、しかし素直な文体で綴ったエッセイ集で、中にはあまり釣りに関係ないのではないかという話も混じっている。

  本のタイトルの『葛西善蔵と釣りがしたい』というのは、収録されたエッセイの一編のタイトルでもあり、その文章にはこんな一節がある。

「わたしは、自分が興味を持った相手とはいっしょに釣りをしてみたいと思う。いっしょに半日釣りをすれば、喫茶店で百ぺん会うよりはるかに多くの情報を得られる。釣りの種類はなんでもいいが、フライフィッシングはあれやこれやとややこしい釣りだから、その人の性格がまともに現れて分かりやすい」

 じつを言うと著者は私の数少ない釣り友だちの一人で、30代半ばより彼と一緒に数え切れないぐらい釣りをした。半日でも相当な情報を得られるらしいので、私の性格などはとっくの昔に丸裸にされてしまっているのかもしれない。

 そういえば、一時期、彼から「いま、●●川がすごく釣れるんですよ!」という釣行のお誘いが多かったが、実際に行ってみるとまるで釣れないというケースが続いた。あれは敢えて釣れない釣り場で私がどのような反応をするかを見極めるためだったんじゃないか? そんな疑惑がちらりと頭をよぎるのであるが、いやしかし、あまりの釣れなさ加減に強く地団駄を踏んでいたのはいつも彼の方であった。そしてこの本はそのような決して懲りない釣りバカというものの習性がきわめて素のカタチで描かれている。

マイナーな釣り雑誌の出版社から出ている本ではあるが、むしろ釣りをやらない人が読んだほうが、釣り人という珍妙な人々の面白さをより楽しめるかもしれない。人と人との「わかりあえなさ」を、ユーモア(x)と洞察(y)の関数によって乗り越えようとした試みが本書だからだ。

ちなみに本書によると、どうやら破滅型の私小説作家である葛西善蔵も釣りが好きだったそうだ。破滅したくないよ。

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