プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『沈黙 ─サイレンス─ 』を見たよ。

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……デウスと大日と混合した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものをつくりあげはじめたのだ。

言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教がもっとも華やかな時でさえも日本人たちは基督教の神ではなく、彼等が屈折させたものを信じたのだ。
遠藤周作『沈黙』新潮社)

この国はすべてのものを腐らせていく沼だ 
(『沈黙  ─サイレンス─ 』よりロドリゴ神父のセリフ)


 生命の価値、尊厳、重さといったようなものは、主体とその生命の持ち主との関係性の中で生まれるものだ。それは人という生物によって構成され、営まれる社会に設定された観念的なルールに過ぎない。一方、国というのも、歴史という時間軸を含む社会の安定と存続のために、想像上で設定された関係性のユニットである。人種、言語、地域など、ユニット結成のモチーフとなるものはみな、具体的な実体ではない。歴史というのも、あるバイアスがかかった想像力によって構成された物語=フィクションである。わが国の場合、天武朝以前の歴史は、実質的にほとんどフィクションといっても差し支えないだろう。

 普遍的な価値としての「生命の尊厳」を訴える人と、殊更に「愛国心」を主張する人は、基本的に同類なのではないかと私は思っている。神を想定したい人や正義を主張したい人も同様だろう。芸術や文化・文明の価値も同じで、音楽でも、美術でも、文学でも、それらを「学ぶ」ことというのは、本来、その相対価値を解剖していく楽しみであると思うのだが、あらかじめそこに絶対性を見いだそうとする人が思いの外多いことに、若い頃、大いにたじろいだ。絶対性を信じることが、神というものへの信頼であるらしい。私はそんなものを信頼することはできない。

 

 そして、あまり突っ込んで考えたくないのだが、この世の中では、そのように自分の外に自分を支配するような疑似絶対価値がないと崩壊する人格やコミュニティで、その大部分が占められているというのが現実だ。

 

 保守的な政治家愛国心を国民に求めるのは、自分が国民から愛されていないと思っているからであろう。やや好意的にいえば、自分たちの権力の基盤となる国家(体制)への国民の醒めた視線が恐ろしいということだと思う。

 しかし、そんな憎まれ口をたたく私ですら、実は国を愛している。日本以外の国を好きになることはできるし、実際そのような国は少なくないが、愛することはしない。愛とは、逃れられない運命の謂われである。だから、いろいろな女性を好きになることができても、愛するのは妻だけ。私は妻のしょーもない部分をたくさん知っている(もちろん逆も)が、それでも運命として受け入れるのみ。

 同様に大正デモクラシーから太平洋戦争までの、近代日本のろくでもなさ認識しても、張りぼての近代天皇制によりかかった責任回避の国家体制を歴史的に保持してきた経緯を知っていても、国を愛することができる。運命として受け入れているからだ。運命とは個人が生きるよすがとして紡ぎ出した涙ぐましいフィクション=言い訳の謂われである。宗教はそんな弱き人間の心を浸食する強力なウイルスのようなものだと私は思う。

 昨日、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 サイレンス』を見た。
 奉行の井上築後守(イッセー尾形)が、決して居丈高にならず、笑顔さえ浮かべながら、イエズス会のパードレに理を尽くして日本にキリスト教を布教する無益さと棄教を説く姿に、少なからぬ西欧人は「もう、言い訳しなくていいよ」と言われたように感じたのではないか?


 奉行の説得に対し、パードレ・ロドリゴはひたすら神の真実の〝実在〟を言い立てるしかない。しかも、日本の隠れキリシタンたちが信心しているものは、孤立の中で独自進化し、カソリックのパードレが受け入れがたい部分も少なくない〝キリスト教の如きモノ〟…。二人の問答の中で「信仰=善」「弾圧=悪」という関係が揺らぎ、ある瞬間、するりと入れ替わる。この映画の根幹はそうしたスリリングなやりとりの中にあるのだろう。

 一方で残虐な処刑を辞さないにもかかわらず、奉行はパードレに粘り強く理を語りかけることをやめず、あくまでも穏やかに納得と改心(棄教)を求めていく。狡猾さと誠意が同居する何とも言えない演技を見せるイッセー尾形にはつくづく感動した。類型を演じながら、類型をはみ出ている、まさに演技というものの真骨頂だろう。

 

 パードレ・ロドリゴは日本という「沼」に足を取られ、もがき、「転び」、自ら「沈黙」してしまうことによって、自分の中の神との対話が始まる。神は沈黙していたわけではなかったのかもしれない…原作のエッセンスをうまく凝縮した、優れた映画化作品だと思った。

 スコセッシ監督は17世紀の日本のリアリティを出すことにこだわりがあったという話だが、確かに下手な日本映画よりずっと説得力がある画面だった。この映画にはBGMとしての音楽はほぼ使われていない。その代わりに虫の音や波音といった自然音が効果的に使われている。この点も日本を再現するという点で卓見だったと言うしかない。日本人キャストは一瞬しか出ないチョイ役までもが、映画の世界観の中で全く緩みのない存在感を発揮しており、これは邦画では考えられないことだろう。隠れキリシタンの一人をロック歌手のPANTAが演じていたのが面白かった。


 3時間近い上映時間を長いと考える人もいるかもしれないが、僕はむしろ短く感じた。もう一度見たら、また別の感想を持ちそうな気がする。しかしその前に原作を読み直さなければいけないだろう。『沈黙』のテーマを発展させた続編とも言える『侍』を含めて。


ところで殉教する隠れキリシタンの長老「じいさま」は、やはり「Jesus ジーザス」のアナロジーなのだろうか? 

沈黙 (新潮文庫)

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侍 (新潮文庫)

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