プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

「川と対話する」近所のフライフィッシング

 

ザ・フライフィッシング

ザ・フライフィッシング

 

 

暗闇でせんべいをを音もたてずに食べるのと、光のもとでバリッとやってはその表面の醤油の焼けぐあい、割れ口から中味のキメの状態などをみながら食べるのとでは、目で食べた方がはるかにうまいのと同じで、魚が釣れたにしてもフライに食いつく決定的瞬間がみえるのとみえないのとでは、釣り味に格段の相違がある、と私は思う。せっかくみえる釣りができるのに、それをしないのはもったいない話である。

それにしても、ドライに魚がでるあの瞬間は、何度あじわっても、その新鮮さが衰えない。

(『ザ・フライフィッシング』所収 中沢孝「スウィッシャーよ、さようなら」)

 

 川でのフライフィッシングは大きく分けると水面の釣りと水面下の釣りに分けることができる。水面の釣りはドライフライフィッシングといい、浮かせる構造の毛鉤=ドライフライを使って、魚が毛鉤に食いつく瞬間を見て合わせを入れる釣りだ(ちなみに言えば、沈める釣りにはウエットフライフィシングとニンフフライフィッシングがある。しかし、現代のフライフィッシングにおいてはいずれもそれほど厳密なカテゴリー分けではないと思う)。

上の引用文は、私が毎号読んでいるフライフィッシング専門誌「フライの雑誌」を創刊した編集者(故人)が書いた文章で、ドライ(フライフィッシング)の楽しみの核心をとても的確かつユーモラスに言い表している。

キャストした毛鉤が水面を流れ魚がいるであろう地点を通過するまでの高揚した気分。そのまま何事も起きなかったときの落胆。気を入れ直して再度毛鉤を投げる。執念深く何度も投げる。そしてついに水面に現れた魚の口が毛鉤を吸い込んだ(あるいは水面上に躍り上がって食いついた)瞬間の心の爆発! ….しかし昂揚しすぎで合わせ損なった時の泣きたい気持ち。釣り人にとっては異性に振られるよりキツイ局面だ。ドライフライフィッシングはことほど左様に人生そのものに比肩するドラマだと思う。だから私のような享楽的な釣り人はそこからどうしても抜け出せない。

 

 最近あまり渓流釣りをしていないので胸を張れないのだが、私はフライフィッシャーマンである。フライフィッシャーマンとは、フライフィッシングの釣りを愛好する人のことで、単に「フライフィッシャー」とか「フライマン」とか呼ぶ人もいる。年配者に「フライマン」を好む人が多いが、それはおそらく日本のフライフィッシング興隆に貢献された諸先輩の一人である沢田賢一郎氏の著書『フライマンの世界』(つり人社/1978年)の影響下にある人々であろう。しかしフライマン、というのは、なにか間の抜けた響きがする。私などは「釣りキチ三平」に出てきたフライマンこと風来満(ふうらい・みつる)を思い浮かべてしまうのだが、この釣りを知らない人が聞いたら、エビフライやカキフライを揚げるプロと誤解されかねない。

 

閑話休題

まもなく渓流釣りシーズンが終結するが、ここ数年来の仕事や日常のさまざまな変化があって、今年はついに一度もヤマメ釣りに行けずに終わりそうだ。33歳でフライフィッシングを始めて初めてのことである。

釣り人人生的には暗雲が立ちこめているのであるが、一つの光明は、近所の川でのオイカワやマルタ、コイ釣りの楽しみだ。

 

 

オイカワのフライフィッシング

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婚姻色と追星が出たオイカワの雄。ホレボレしてしまう美しさ、精悍さ。

オイカワは、周年通して川にいる小魚(地方名:ハヤ、シラハエ、ジンケン)で、春〜初秋にかけてが釣りシーズンである。もっぱらドライフライフィッシングで釣るが、沈める毛鉤を2本付けたドロッパー仕掛けというものを水面下に送り込み、魚がいるであろうポイントでターンさせるウェットフライフィッシングもなかなか楽しい。この場合、当たりは手にククッと伝わってくるが、毛鉤が沈んでいる辺りでキラリと魚影が走るのが見えることも少なくない。沈めると言っても毛鉤が流れているのは水面から数センチぐらいの所だからだ。オイカワは夏真っ盛りの頃はオスの婚姻色がとても美しい。そのシーズンに15センチ以上のオスを釣ると、しばらく眺めいってしまうほど美しい。
オイカワは冬でも毛鉤で釣れないことはない。むしろ魚としての旬は冬で、エサ釣りの達人は冬でも束釣り(100匹単位の釣り)するらしい。また、これもまた「ハヤ」と呼ばれることが多いウグイを脂の乗った冬に釣る寒バヤ釣りというのもある。


マルタのフライフィッシング

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赤い婚姻色ベルトがくっきり出たオスのマルタ。50㎝ぐらい。

マルタは「マルタウグイ」ともいい、ウグイの近縁種だ。ウグイは一生を淡水で過ごすがマルタは、稚魚のうちに海に下って、3〜4月上旬ぐらいにかけて生まれた川に戻ってきて産卵行動に入る。かわいそうだが、フライフィッシャーマンはそこを釣るのである。これまで何度も試したが、ドライフライフィッシングでは全く釣れたことがない。フワフワ系素材でつくった毛鉤を川底近くまで沈めて、魚の口元辺りに上流からすーっと送り込むという釣りをする。アラスカのサーモンの釣りに近い。マルタウグイは40〜60㎝もある日本の淡水域ではかなりの大型魚で、私が多摩川の調布辺りで釣った最大サイズは70㎝弱もあった。これぐらいのサイズになると柔なロッドだと折られてしまうのではないかと思えるほどグイグイ引く。海外の大型魚を釣る良いトレーニングにもなるかもしれない。

 
コイのフライフィッシング

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このコイは積極的に毛鉤に食いついてきた。たまにそういうことがある。

鯉もどこの川でもおなじみの魚だが、思いの外、賢いというか神経質というか、場合によっては釣るのがかなり難しくなる。比較的ドライフライフィッシングで釣りやすいのは、水面上を流れる水生昆虫類(ユスリカ、トビケラ、カゲロウなど)や誰かが投げたパンをぱくぱく食べている時。鱒類のように食いつく感じではなく、大きく口を開けて毛鉤が口の中に入るのを待っているケースが多い。口の中に毛鉤が入ったと思ってすかさず合わせるとまだ入りきっていなかったらしく、すっぽ抜けてしまうことがよくあった。鯉の口が閉じてから、または反転してから合わせるべきなのだろう。針にかかってからはサイズと場所によっては重戦車のような引きでどこまでも逃げていく。無理に引っ張るとライン切れや鉤が伸びてしまう恐れがあるので、川岸を走って追いかける。魚が止まったところでリールをあわてて巻きラインをできるだけ回収する。また、魚が重いトルクで逃げていく。釣り人走る。魚止まる。釣り人一生懸命巻く。楽しい!

 

 

こうした近所の釣りが、遠征するヤマメやイワナ釣りと同じぐらい感興深いことに気付いたのは数年前だった。自由業になって、毎週同じ川で釣りをしていると、季節の移り変わり、魚の付き場やコンディション、台風や大雨、あるいは河川工事での川相の変化、カワウによる魚食被害状況など周年を通した川の状況が見えてきて、カッコ良く言えば「川と対話」するように釣りができるようになってきたのだ。「初めての釣り場」との出会いとチャレンジも釣り人人生的には欠かせないのだけれど、「いつもの川」との親密な関係も私の生活にやはり必要不可欠なものとなりつつある。今後はこれまで以上に川の声に耳をよく傾け、オイカワを冬でもコンスタントに毛鉤でガンガン釣ることが大きな目標だ。しかし釣れないんだな、これが!

 ……なんだか少々とりとめがなくなってきたので、開高健が著書「オーパ」で紹介した中国の古いことわざでこの文章を(無理矢理)締めることにしよう。

 

「一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。」

「三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。」

「八日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。」

「永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。」