靖国と天皇の「うれひ」
忘れめや 戦の庭に たふれしは
暮らしささへし をのこなりしを
(昭和37年 昭和天皇御製)
忘れることができようか 戦争で死んでいったのは、家庭を支えた男たちであったことを…と詠んだ昭和天皇。
今からちょうど10年前の夏、A級戦犯が靖国神社に合祀されたことに関する昭和天皇の「お気持ち」が、当時の宮内庁長官だった富田朝彦によるメモとして明らかにされた。
この「富田メモ」を巡ってその真偽を含めて大いに論議が交わされたことは未だ記憶に新しい。先日の今上天皇の「お気持ち」と同等以上のインパクトがあったと思う。というのもこちらは天皇というものの意思を、それも特定の人物へのネガティブな感情(不快感)が含まれるものがストレートに表現された肉声だったからだ。問題となったのは崩御前年の1988年の発言から以下の件である。
私は 或る時に A級が合祀され
その上 松岡(洋右・元外相)、白鳥(敏夫・元駐伊大使)までもが
筑波(藤麿・元靖国神社宮司)は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と 松平は 平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから私あれ以来、参拝していない
それが私の心だ
※( )内は引用者注
メモ中の「松平」は終戦直後の宮内大臣であった松平慶民。「松平の子」は、その長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳のこと。永芳は富田メモ発表の前年に亡くなっている。発表のタイミングはそういう事情も考慮されたのだと思う。メモを発表した日本経済新聞は、その後、識者を集めて検証委員会を開催した。その結果、ここで述べられているのは「A級戦犯合祀に対する昭和天皇の不快感以外の解釈はあり得ない」という結論になったはずだ。
この天皇による「放言」に、メディア、政治家とも右往左往した。女系天皇騒動の時に三笠宮発言を諌めた新聞社が、この時は掌をかえしたように天皇発言を利用しているダブルスタンダードぶりも滑稽だった。
ある意味、いちばんまっとうに対応したのは、自分の靖国参拝に天皇発言の影響はないと断言した時の首相の小泉純一郎で、彼は実は天皇にも、靖国にもなんら思い入れがない男だ。彼は首相になるまで、靖国神社に参拝したことはなかった。しかし首相就任後は一転して遺族会や右寄りの人々へのアピールと、中韓に対するデモンストレーション効果で靖国に足を運ぶという、なんというかマキャアヴェリ的な振る舞いを演じた。それはそれで大したものだ。
この年の この日にもまた 靖国の
みやしろのことに うれひは深し
(昭和62年8月15日 昭和天皇御製)
靖国参拝をやめた後に昭和天皇が詠んだ歌。死んでも先帝の「うれひ」は、深いままだ。そしてもちろん、今上天皇にもその「うれひ」は受け継がれている。
この歌では「うれひ」の解釈は、如何様にも解釈できるようになっている。それこそが天皇の意志であり、仕事であるのだろう。