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プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

井上靖と吉田健一

人物

 

風林火山 (新潮文庫)

 

 ところで井上靖って、今、どれくらい読まれているのか。


 『天平の甍』『あすなろ物語』『敦煌』『蒼き狼』『おろしや国酔夢譚』といった代表作は、みんな文句なしに面白い小説だ。井上靖作品は映画化されたものも少なくない。そのうち『本覚坊遺文』と『おろしや国酔夢譚』は僕もロードショーを見に行った。前者はなかなか。後者はがっかり。

 

  Amazonを見てみると代表作はだいたい出版されている。しかし、書店でこれらの代表作がずらりと並んでいることは滅多にない。多くの作品がKindle化されているので読むのは容易だが、僕が学生時代は井上作品が文庫売場のかなりのスペースを取っていたから、21世紀になって忘れられつつある作家の一人になりつつあるのかもしれない。井上靖は、長年ノーベル文学賞候補とも目されていたというのに。そういえば同じ「い」で始まる石川達三なんて昔は中規模の書店でも7〜8冊並んでいたが、今や1冊も見ない(一応、『青春の蹉跌』『蒼氓』などが新潮文庫から出ているようだが)。

 

 井上作品の中では大河ドラマにもなった『風林火山』が、今の若い人にもお勧めできる小説だ。それほど長くないので一気に読める。信玄と勘助、そして由布姫の、共犯関係のような、三角関係のような、微妙な関係性が何とも言えず良い。文庫版解説を吉田健一が書いていて、これも実に良い。

 

この小説が発表された当時、一般に余り注意を惹かなかったのは、それが『小説新潮』のような、面白さで読ませるのが目的の雑誌に連載された為でもあると考えられる。小説というものに就いてどんなことが言われていても、素朴に面白いものは文学として扱われないがの実情であって、映画までが芸術になった今日、小説が面白くてもよさそうなものであるが、それがまだ常識になるところまでいっていないのは、一つには、面白くては頭を使わないからという理由もあるに違いない。頭を使わないから高級ではなくて、従って文学ではないのである。下手な小説ならば、確かに頭を使う。実は、使ってみたところで始まらないのであるが、読者はそれで少しは頭がよくなった気がするのかもしれない。

井上靖風林火山新潮文庫版解説 吉田健一

 

  昭和33年に書かれた文章だが、読者に頭を使わせることで得意になっている筆者とそこに劣等感を抱えながらぶら下がる読者群は、だいぶ減ったとはいえまだ健在。なので、辛辣な文章は半世紀以上のタイムラグをそれほど感じさせない。

 

 吉田健一は、日本国憲法公布時の宰相吉田茂の息子で、母・雪子は大久保利通の息子である牧野伸顕の娘。また、麻生太郎財務大臣の伯父に当たる人だ。僕はこの人の曲折した文章が大好きで、おかげで彼が代表作を翻訳したイブリン・ウォーの小説も好きになった。小説とはストーリーの語り口が8割だと思う僕の場合、その語り口=文体の好き嫌いが小説というものへの評価の重要な軸となる。

 

  吉田健一もマニアなファン(僕もだ)はいるものの、忘れられかけている文学者だ。

 

 一般に英国風洒脱やダンディズムと皮肉に満ちた文章家、キングスイングリッシュを身につけた英語の達人などとして語られることが多いが、僕は大政治家たる父親への反発からか、戦後日本を徹底して傍観者として過ごした孤独な青年を思い浮かべる。一説によると戦時中に亡くなった母の後添えに愛人であった新橋芸者が迎えられたことへの反発があったともいう。もちろんそれはあっただろう。おそらく、あの曲がりくねりながらも強靱な文体の原動力は男の子の屈託なのだ。文学、文章への熱中が孤独な魂を癒す唯一の手段であったろう。ぼくはそこに「音楽」を感じるのだが、人によってジャミングでしかないのかもしれない。

 

  終戦から70年を経たこの転換期において、吉田健一の屈託をもって時代を凝視し続ける態度をあらためて読み返したいと思う。また、井上靖のロマンチシズムあふれるストーリーテリングにも懐かしさを越えた磁力を感じる。そして人間としてのタイプはかなり異なるこの二人の魂が共鳴しあっていた昭和という時代の野太さに、なんとなく嘆息をもらしたくなる気分になってしまうのである。


 すっかりおやじだな。 

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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