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プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

書く技術。〜清水幾太郎と本多勝一の文章読本をめぐって〜

私の文章作法 (中公文庫)

話すことと書くこととの間には、大きな距たりがあるのです。
だって、そうではありませんか。日本中──というより世界中の人間が朝から晩まで立派に(?)喋りまくっているのに、文章らしい文章が書ける人は、数えるほどしかいないのですから。(中略)文章を書くのは、他人の心を盗むことなのですから、泥棒の真似をするに限ります。(清水幾太郎『私の文章作法』)

 おそらく、清水氏がこれを書いた時代から、急激なスピードで「話すことと書くこととの間には、大きな距たりがある」状態が曖昧化しつつあるように思える。距離が縮まるのではなく、曖昧になっている。

 このブログを含めて、現在インターネット上で一般人が発する日本語はかなり雑駁で、明晰さのかけらもないが、それは書き手の錬磨度やプロ・アマに関係ない印象がある。プロはプロなりにプロなのだが、プロなりの嫌な雑駁さがある。たとえばコピーライターっぽい文章っていうのがあって、本人はそのことにそれほど自覚的ではない。むしろスタイル(文体)として磨きをかけていると思い込んでいる。

 「お前はどうなのだ」と言われても困るが(いや困りはしない。頷くのみだ)、一番困るのがプロを意識して書かれるアマの日本語に接する時である。言葉の枠組み・レトリック中に人格が閉じ込められ、悶絶してのたうち回るように、誰というでもなく人とのコミュニケーションを求めて、汗にまみれた手を差し伸べているからである。誰もそんな手を握りたくないし、できれば一刻も早く立ち去りたい。文体の罠に捕まえられたままだと、どうしても言葉は自我の腐敗臭を放つ。

 それはさておき。上記 清水氏の本は、実はあまり実用的とは言えない。なにしろ冒頭から

以前から考えているのですが、人間というものは、生まれつき、文章を書ける人と、書けない人とに分かれているように思います。

などと書いていて、文章読本であることをハナから投げちゃっている点が微笑ましい。とても面白い本だけれど、文章技術書としてはかなり物足りない。むしろ日常的に知的な思考を深めるノウハウ修得に役立つ本だが、人によっては説教本と映るかもしれない(決してそうではないと思うが)。「泥棒の真似」とはそういうことを含めたことではないかと思う。


 清水本には「新聞の文章を真似するな」とも書かれていて、実にその通りなのだが、それはある程度文章を書く経験を積んだ人でないと、その真意を正確に理解することはできないだろう。実際、5W1Hとの絡みで「新聞の文章を模範とせよ」と教えられていた時代は長かったのだ。

 

 実用的な文章読本と言えば、その新聞の書き手であった本多勝一の『日本語の作文技術』が、やはり優れている。これは職業的な文章書きなら、ぜひ机に備えておきたい1冊で、タイトルとおりちゃんとした「技術書」なのだ。本多勝一そのものはジャーナリストとして毀誉褒貶甚だしい人だが、他人に伝える文章を書きたい人なら、著者の好き嫌いに関係なくこの本だけは持っておいても損はないと思う。ちなみに私が持っているのは、著者サイン本。父が会社の同僚だったからだが、その後、父は知床の森の伐採(父は賛成派で本多氏が反対派)を巡って、名指しで本多氏から批判されていて笑った。その批判文は彼の著書にもに収められているが、そこでは武士の情けで父の名は「O」とイニシャルで記されていた。

【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)

【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)