プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

僕の富士山

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 2012年、本栖湖に釣りに行く途上、渋滞にはまった暇つぶしに撮った絵。


 富士山というのは地理学的にもたいへん珍しい単独峰で、さまざまな偶然が積み重なるようにしてあの美しい姿が形成されたそうだ。人はそこに荘重さとともに、純粋性へのあこがれを仮託しがちで、我が国の近代化の過程ではそれが国威発揚のビジュアルシンボルにも使われた。

 朝、仕事場に行くため西武池袋線に乗って、「東久留米」駅近くにさしかかると、黒目川(目黒川にあらず)を渡る小さな鉄橋の上流側に富士山がくっきりと見える。特に今頃の季節は空気も澄んで、まるで書き割りの絵のように見事な偉容が車窓のかなたにちらりと見える。通学に電車を使うようになった高校生の頃から見慣れた風景である。いや、昔は住宅やビルなどがもっと少なかったので、相対的に富士山がもっと大きく見えていたような気がする。
 
こうした日常の中で、また出張で乗った東海道新幹線の車窓から、あるいは富士五湖での釣りの最中に、荘重たる富士山の偉容を目にするたび、僕はその自然美への感興とともに、過去から引き摺ってきたやや複雑な思いを反芻することになる。
 
 僕が小学校4年生の担任教師は、アマチュア画家でもあった女性のH先生であった。ちょうどウチの親と同じぐらいの年(当時40歳前後)だが独身で服装もその時代の中年女性にしてはかなりお洒落であった。あるときは街中で若い男にナンパされたことをクラスで子どもたちに得々と自慢されたこともある。今だったら大問題であろう。念のため言っておくとH先生というのは「エッチ」だからではなく、その先生の名字のイニシャルである。
 
  先生が住んでいたのは、僕がフナ釣りをしていた川っぺりに新しく建った高層マンション(といっても10階建てぐらい。当時としては十分高層)で、一度、ご自宅にクラスの仲間数人と招かれたことがある。先生はヘビースモーカーだったが、そのときどういう経緯からか、僕を含む子どもたちは一吸いづつタバコを回し喫みさせてもらった。銘柄は「チェリー」。ところがそのことがどこかからたちまちバレてしまう。たぶん先生の家に行った誰かが親に「報告」してしまったのだろう。その結果、先生は校長にこってりと油を絞られたらしく、ホームルームの時間に苦笑いしながら謝った。今だったらとてもそのくらいでは済むまい。
 
 授業に関しては、自身が画家だからか図画工作の時間が他の先生とまったくやり方が違っていて、漠然としたテーマを与えて子どもたちに自由に絵を描かせた。時にはヨーロッパの伝説などの話をして、その話の中でもっとも印象に残るシーンを絵にしなさいということもあった。評価の基準も技術的な巧拙だけでなく、その絵に児童が込めた気持ちの強さみたいなところをよく見ていて、そこを褒めた。おかげで絵が下手な僕も、何回か褒めてもらえた。
 
 その図工の時間に「旅の思い出」といったようなテーマが与えられたことがある。僕と鉄分が多かった友だち2人は東海道新幹線の絵を書いた。3人の中で絵がもっとも上手なMくんは、背景に大きな富士山が見える疾走中の0系列車を描いた。さすがMくん、構図的にもバランスがとれた見事な絵だと思った。僕などまだ半分も描けていないのに…。できた順から教壇の先生に絵を見せて、評価してもらうシステムだったので、Mくんは勇んで先生のところへ。ところが戻ってきたMくんはちょっとしょげていた。「どうしたの?」「先生に富士山を描く人は意気地なしって言われた….」。意味がよくわからなかった。「意気地なし?」「うん」。Mくんはまったく釈然としない様子だった。当然だろう。やはり新幹線の背景に富士山を描き掛けていたSくんは、慌てて背景を尖った普通の山脈にしていた。機を見るに敏なやつだ。
 
 そこで私はようやく完成した自分の絵を見せに行った時、H先生に「富士山を描くとなぜ意気地なしなんですか?」と訊いてみた。先生は少し困った顔をしたが、頷いて「みんなに説明しましょう」と言った。クラス全員に向けた説明を要約すると、先生が子どもだった戦時中は富士山や皇室など「大きなモノ」「偉大なモノ」に正義が仮託され、弱者がえらく酷い目にあった。人は自分自身の等身大で生きて、モノを考えるべきで、自分と関係ない大きなモノに決して寄りかかってはいけない...ということだったと思う。そういうことを10歳児に向けて先生は熱弁した。正直言って、すべて納得できたわけではない。いや、全く納得いかない話だと思った。だって富士山は純粋に美しい山ではないか。その事実に一点の曇りもないはずだ。しかし、H先生の胸の中に秘められた、われわれ子どもには計り知れない強い思いの存在だけは何となくだが、よくわかった。だから反論はやめた。戦争体験というのは一種のブラックボックスだ。

その日以来、先生は自身の戦争体験の話をよくするようになったように思う。いちばん強烈だったのは、親友と工場で勤労動員をしていた時の空襲で、一緒に逃げた親友に焼夷弾が直撃した話だ。十代の女の子である。米軍に正義はない。そんなことがほんとうにあり得るのかと思った。怒りという感情の熱量に焼かれそうな気分がした。
 
 富士山というと、いまでも僕はH先生のちょっと派手な容貌とファッションが目に浮かび、熱弁したときの悲しみが滲む表情を思い出し、焼夷弾に直撃された先生の友人の短い生涯に思いを馳せる。先生はなぜMくんの見事な絵を見て、心のバネが飛んでしまったのか? その疑問から想像されるH先生の抱えた暗闇と戦争の影は、僕が平和とか戦争を考える原点になったような気がする。富士山は近くで見ると汚いという話があるが、僕の場合、遠くから見てもそこに邪悪の存在を感じることができる。
 
 最後にまったくの余談。H先生はいつも笑顔で気さくな女性だったが、時々般若の面みたいな、まるで別人の容貌に見える日があり、そういう日は決まって機嫌も悪かった。今考えると「般若の日」は先生の生理日だったのだと気がつくが、あんなにそのことがわかりやすい女性にその後会ったことがない。現在生きていれば85歳ぐらいだろうけど、再会してお話ししてみたいような気がする。何を話したいというわけでもないのだが。