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プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

「平成」と「昭和」の狭間で「明治の人」を想う

回想

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昭和天皇が亡くなった時、私は27歳だった。今朝ふと気づいたのだが、今年54歳の私は昭和と平成をちょうど27年ずつ生きていることになる。今後は平成の年数だけが増えていくわけだ。自分を「昭和の人」と思い込んでいたから、このことはちょっとした驚きだった。

しかし、これからも私が「昭和の人」であることは変わらないだろう。別に過去を引きずる生き方をしたいわけではなく、私という人間の感受性と理性と世界観を醸成したのが昭和(の後半)という時代である事実はもはや変えようがないからだ。

そして、このことは私の祖父母が最後まで「明治の人」であったことを思い出させる。

1900年生まれの父方の祖父は10代の頃(大正年間)に日系移民の親族を頼って米国に渡り、自動車整備技術と運転を習得した。後年、日曜大工や園芸の細々とした作業を嬉々として、実に器用にこなしていた祖父の姿を覚えているが、そうした技術習得と手仕事が祖父にとっての生きる喜びの一つであったことは孫の私にも容易に想像できる。

祖父にとっての不幸は、そうした天性を持ちながら商家に養子に出されたことだろう。生地問屋の長女であった祖母は、祖父の一つ年下で、朝ドラの「あさ」さんよろしく、口八丁でポジティブな生まれつきの大阪商人のような女性であった。私の中ではミヤコ蝶々とイメージがダブる。外見は似ているわけではない。

祖父は目鼻立ちの整った二枚目で、ちょっと近衛十四郎に似ていた。やや短気だったが人柄が良く、女性にもてたようだ。しかし商売人としては余りにも正直で、外連のない性格だった。しだいに不向きな商売と養子の立場に対するフラストレーションが高じてくる。なじみの祇園の芸者と駆け落ち騒動なども起こし、ついに本家から任されていた支店を閉めて、米国ジェネラル・モーターズ大阪支社にエンジニアとして就職した。これで祖父の人生もいくらか落ち着いてくるかと思われたが、やがて太平洋戦争が勃発する。当然、ジェネラル・モーターズは日本から撤退し、無職となった祖父は満州に渡る。満州では満州自動車製造という会社でエンジニアをしていたようだ。敗戦後、民間人だったがソ連軍にしばらく抑留され、終戦後2年ほどして帰国した。

祖父には、日本的なしがらみから逃げたいという気持ちがずっとあったのかな…と今になって思う。そんな暗夜行路な祖父を尻目に祖母は実家の商家で働きながら4人の子どもを立派に育て上げた。たんにしっかり者と言うだけでない不思議な柔らかさがある人だった。長男である伯父が商売を継ぎたくないと言い出し、大学文学部への進学を希望したとき、猛反対する親族一同で伯父をかばったのは祖母だけだったという。結局、伯父は自分の意志を貫くことができた。ちなみに次男である私の父も文学志向であったが、さすがに言い出せず商学部に進んだ。しかし、商売を継がず兄と同じ新聞記者になった。

戦後、祖父母は大阪・玉造の長屋に住み、その後、短期間だが私の家で同居した。その頃の思い出はいろいろあるし、写真もたくさん残っている。1968年より伯父が住む兵庫県伊丹市の家に別棟を建てて、二人で暮らした。大阪万博の夏休み、私はそこに泊まって3日間会場に通った。伯父によると90歳過ぎて死ぬ直前まで、その家で派手に夫婦げんかをやらかしていたという。喧嘩の理由のひとつは祖父のタバコだったようだ。酒も大好きだった。祖母は91歳で亡くなったが、葬式に訪れた私に祖父はタバコを箱ごとくれて、一緒に吸おうと言った。親族一同、喫煙者は私と祖父だけだった(今はやめている)。「これで部屋の中でいくらでも吸えるで」と笑った。祖母の嫌煙圧力から解放され、ほんとうに嬉しそうにしていた。ところがそれから2ヶ月もしないうちに祖父は、妻の後を追うように静かに息を引き取った。死ぬ前に一緒にタバコを吸って本当によかったと思う。喫煙だけでなく、遊び人タイプの人間も親族一同の中で祖父と私だけだろう。形見に愛用の腕時計を2つと最後に使った使い捨てライターをいただいた。

それにしても祖母は芸者と駆け落ちしたり、家業に力を注がない祖父となぜ離婚しなかったのかな….と思うことがある。一人でも生きていけるしっかり者だったし、実家の商売は盛んだったから、養子の夫を見捨てても不思議ではない。子どものため、と考えるのが常道だと思うが、案外、男前の祖父に惚れきっていたのではないかとも思えるフシがある。伯父も同じようなことを言っていた。織田作之助の「夫婦善哉」のような関係である。

祖父母の世代の人たちは総じて「生き甲斐」とか、「夢」とか、「自分らしさ」とかいう言葉とは無縁の人生だったと思う。そんな言葉は一度たりとも使ったことはなかっただろう。しかし、彼らの人生を思うとき、あまりにも険しい甲斐の山岳を乗り越え、夢なんていう安手な言葉で表せない質量のある思いに満ち、自分というものを十全に燃焼させた人生だったと思わざるを得ない。時代に翻弄されたり、他人のために自らを空しうしてもなお、人間というものは、その人として余すところのない生の軌跡をくっきりと描くことができるのだ。それは彼ら二人とも「近代人」=「明治の人」だったからではないかと私は思う。彼らのような人々が歴史の舞台から退場しはじめた時、日本の「近代化(modernization)」は終了したのだろう。

それはちょうど「平成」の時代を迎えたころではなかったかと私は考えている。