読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

太宰治から村上春樹へ

本の雑誌390号


本の雑誌』最新号(390号)の特集が太宰治だというので早速購入した。特集内容は以下の通り。じつに素晴らしい!

 

■特集:「太宰治は本当に人間失格なのか?」

 

対談/ダメ人間作家コンテスト! 西村賢太vs坪内祐三 

コラム/編集者某が明かす作家借金伝説!

太宰より面白い!? 壮絶私小説十作 小谷野 敦 

流行作家の死 校條 剛   

古書店と太宰治 青木正美  

ファミレスと放屁と『人間失格』 中原昌也  

田中英光・光二のこと亀和田 武 

太宰治の10冊/太宰の面白さは人間「魅」だ! 松村幹彦  

読者アンケート/このダメ作家が愛しい!

  閑話休題。中学から高校にかけて、僕は自宅にあった太宰治全集をがーっと読みまくった。全集だから随筆とか、書簡とかもあって、そういうのも貪るように読んだ。以来、読み返したことがない作品も多いが、もっとも思い出深いのは「満願」「女生徒」「御伽草子」「富嶽百景」など、不思議な明るさと平静さがある戦時中の作品だ。長編では「津軽」や「右大臣実朝」など。高校時代、屋上ではないが授業をサボって、トランジスタラジオならぬ、文庫本の中から聞こえてくる音楽に耳を傾けた。そう太宰の文章は音楽的だったのだ。もちろん戦後の短編「桜桃」「トカトントン」「親友交歓」、中編の「人間失格」あたりも捨てがたい。技巧派の面目躍如と思える作品群だ。未完の遺作「グッドバイ」が完成していれば、日本文学屈指の傑作が一つ追加されただろう、と思う。

 

子供より親が大事、と思いたい。

太宰治「桜桃」)

 と引用して、何を書いたらいいのか迷う。誰もが先行き不透明な社会に惑いながらふわふわとした危機感の中で生きている今こそ、太宰治、なんじゃない…と問いかけたいのか? いや、単に「子供より親が大事」と私も思いたいということかもしれない。あるいは思えないのがつらい、とか。


 ポイントは「、と思いたい。」のビミョーさ加減なのだが、こういうところからも太宰治は一般に思われているより、日本では珍しい技巧派の小説家であることがわかる。やはりスキャンダラスな自死を遂げた三島由紀夫を技巧派と言えば多くの人は納得してくれるだろうが、情死作家・太宰治のパブリックイメージは小説家本来のスキルという部分でややぼやけてしまっているように感じる。情死より切腹のほうがえらいのだろうか?

 上の引用でも「子供より親が大事」の部分がクローズアップされ、それが太宰の破滅派としてのイメージ形成の一助となっているが、ここで肝心なのはやはり「、と思いたい。」に見られる心の揺れの表現だろう。

 テクニカルというと日本の小説家は長らく、(おそらく志賀直哉一派のせいで)芸事的な文章道の呪縛にとらわれていて、メタフィジカルな文章技巧が軽視されがちだったように思える。小説はレトリックのみでは成立しないが、やはり最後に依るべきものは技術しかないのも確かだ。

 芸事としての文章を洗練させていく白樺派の心境小説的な方向は、そうした技術面でははなはだ不毛な試みだったように思える。技術とは、常に新しい地平をめざして、改善・進歩していくものだからだ。それがモノづくりというものであり、小説家とエンジニアに本質的な違いはない。

 書く技術を通して驚くべき人間通でもあった太宰だが、生きることは下手だった。ここらへんもエンジニアに似ているが、生き下手であるからこそ、そしてまさにその部分から、次々に新しいレトリックが生まれてくる驚きを同時代の読者は堪能できたのだった。まさに身を削って書いていたわけだ。

 

 太宰が死んだ30年後に日本文学界に彗星のごとく飛来し、それまでの通弊を軽々と突き破ったのが、今をときめく村上春樹だ(と僕は思っている)。「ノルウェーの森」以降に愛読者になった人にはこの感覚はわからないと思うが、当時、デビュー作「風の歌を聴け」を読んで少なからぬ小説好きが「日本語で小説を書くとは、こういうことだったのか!?」あるいは「このように日本語で小説を組み立てることができるのか!?」という新鮮な驚きを覚えた。小説家にとって「技術開発」がいかに大切か…それを多くの文学愛好者に思い出させてくれた。僕のフェイバリットは未だに2作目の「1973年のピンボール」である。この作品の後ぐらいから、エピゴーネンが現れ始めたように記憶している。

 村上春樹は、小説家になる前は商売でも一定の成功をおさめていたようだし、早寝早起きの規則正しいライフスタイルでランニングも励行しており、自ら誇示することはないが具体的な生活力と生命力が旺盛な人だ。太宰治とは対極にいる。日本の純文学業界との交わりが殆どないこともさすがだと思う。言葉のエンジニアとしての矜持を持った初めての純文学作家かもしれない。

 太宰が志賀直哉を痛罵した随筆「如是我聞」は、一読、芥川賞落選の私怨のようだが、選考委員を務めていた志賀という既得権保持者を許せなかった公怨とも読める。そういえば高校生の頃、私が「オレの時間を返せ」と叫びたかった有名な小説はトルストイ「復活」と志賀直哉「暗夜行路」であった。「暗夜行路」とはそれを書いた志賀の頭の中のことだと思った。

 その芥川賞は、結局、ノーベル賞候補の世界的大作家・村上春樹に賞を与えるチャンスを逸してしまった。今、BOOKOFFの棚にずらりと並ぶ(太宰ファンだという)お笑い芸人の芥川受賞作を太宰が見たら、きっとシニカルで苦いユーモアがにじむ短編一つを仕上げるに違いない。

 

 「なぜ村上春樹みたいな作家がノーベル賞候補になったり、こんなにもてはやされているのかわからない」という人も少なくないとは思うが、小説というものに本質的な知的関心がなければ、それも当然なので心配する必要はない。「なぜ、プログレがそんなに良いのか」「なぜ、釣りにそんなに夢中になれるのか?」と同じ事だからだ。ほっといてくれ!