プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

日本人は笑えない

日本人は笑わない (新潮文庫)

三十年間で何が失われたかと言えば、まともな嫌悪感である。(中略)〈良識〉というとおとなしくきこえるが、その元になるのも、嫌悪感である。

小林信彦「平成つれづれ草」『日本人は笑わない』所収)

 

 上の引用はバブル崩壊後の日本社会の有り様に触れて、述べられたもの。一見、古来より年寄りがつぶやき続けてきた「近頃の若いものは・・・」というのと質的にまったく変わらないような気もするが、ここで使われる「嫌悪感」というネガティブワードが、言葉に微妙な陰影とリアリティを与えているような気がしてならない。小林さんは、小説や映画、芸能の見巧者だ。すでにこの引用から20年以上が経っているが、「まともな嫌悪感」はますますきれいごとという騒音に掻き消されているようだ。

 私は小林さんの小説の良い読者ではないが、先に書いたように屈指の見巧者であり、読みも確かな彼を読書家としてとても信頼している。

 この人のおかげで私はバルザック『人間喜劇』シリーズやスタンダール『パルムの僧院』を十分に味わうことができたと思ったし、なによりパトリシア・ハイスミスの作品群に出会うことができた。ある時期、小林さんはエッセイ等でハイスミスの魅力を集中的に喧伝し、そのおかげで多くのハイスミス作品が翻訳された。これは小林さんの「策略」だったようである。おかげで随分楽しい(作品的には怖い、だが)思いをさせてもらい感謝している。そしてこれらの文学作品にはやはり「嫌悪感」というものが重要なモチーフになっているのだ。


 近頃、SNSやブログで俗流人生論や仕事論みたいなものを書いている人がたくさんいるけど、だいたいその類のものは「嫌悪感」を無視するか、スルーしての論であることが多い。ゆえにそれらの言葉はまるでジョン・レノン以外の歌手が歌う「イマジン」のように白々しい。なんなんだろうなアレ、とか思うが、でも、そういうものに一定のファンがいることも世の習いではある。一方、世の政治・経済論においては逆に幼稚で唾棄すべき憎悪や歪んだ嫌悪感が、ネットを含むメディア上、大手を振って歩くようになった。確かに良識は失われつつあるのだろう。

 小林さんはビートルズをモチーフにした小説を何作か書いていて、そのディティールに関して、超ビートルズ狂の松村雄策氏と論争になったことがあった。私としては松村氏に一理があったと思うのだが、渋谷陽一氏の仲立ちによって、(政治的配慮なのか何なのか)論争自体はうやむやのうち終わった。まあ、結論をだしたところで、一部マニアにしか理解できない問題ではあったのだが。

 

 その松村氏は、小林さんのハイスミスのように、80年代初頭のロッキングオン誌上で頻りにバッドフィンガーを取り上げた。ビートルズの弟バンドといわれ、正当に評価されているとはいえなかったこの悲劇のロックバンドに光を当てたのは松村氏だった。そして80年代中盤より、アップルワーナー廃盤となっていたバッドフィンガー諸作品が徐々に再発されはじめたのだ。ピート・ハム、トム・エヴァンスという2人のソングライターの書いた曲は、ポップながら陰影のある深みを持っていた。ニルソンの大ヒット曲「Without You」はこの二人の共作。そして、二人とも不可解な自殺を遂げてしまう。

 今日はバッドフィンガーのベスト盤を聴きながら、ロンドンの空とは全く異なる秋晴れの東京の空を見上げていた。いつも以上にとりとめのないことを書いてしまった。

Very Best of Badfinger

Very Best of Badfinger