プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

風に語りて(I Talk To the Wind)

 

 

クリムゾン・キングの宮殿 by キング・クリムゾン (1988-04-06)

生真面目な男が、遅れてきた男に言った。

「お前はどこにいたんだ?」

「僕はここにいたし、僕はあそこにいたし 、

そしてその真ん中あたりにもいたのさ」

僕は風に話しかけた。言葉はみんな運び去られてしまう。

僕は風に話しかけた。 風は聞いてはいない。

風には聞こえていない。

(KING CRIMSON『I Talk To the Wind』拙訳)

 

 ラジオ少年だった中学生の頃、AMのニッポン放送で深夜12時10分から『たむたむたいむ』という20分の番組をやっていた。パーソナリティは確か「かぜ耕士」さんというソングライターの方であった。聴取者は「かぜ」さんにハガキを出し(僕も何回かハガキを出したが読まれたことはない)、自分の思い、遭遇した出来事など、様々な他愛もない青春の一コマを語りかけていた。それで不思議に番組が成立していたのだ。その番組を聴いていた私はしばしばハガキを通してさまざまな人生に触れることで感動さえしていた。が、同時になにかむなしさというか、電波の中に希薄化していく時間と言葉に対するクエスッチョンマークを脳内に分泌させていた。そのむなしさこそ、人が生きていくことそのものだと思い知ったのはすでに不惑を迎える頃だっただろうか。

 

いま、ネット上の様々なSNSのやりとりやブログ記事を読むと、時々その番組のことを思い出す。多くの人は「かぜ」に向かって何かを語っている。当然、自分も含めて言うのであるが、インターネットブログや掲示板上で語られている言葉の累積が、次々と生成され、雲散霧消してしまう。その言説のほとんどすべてが光ファイバーを介したWWW(World Wide Web )的な広がりを持つこともなく、コアな私的メッセージとしてなんとなく消費されていくこの状況はなんだろうな、と思いつつ、自分でも日々片言を書き綴っているオレは誰だ、という気分になることはある。

はてさて、自分はいったいどこの「かぜ」さんに向かって語りかけているのだろうか?