プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

言葉が足りない。

「わたしが、東京に出ん理由は、ですね」と香川登志緒は強調した。「〈なんでやねん〉という言葉にあたる標準語がないからです。東京は、言葉が少ない」

小林信彦『日本の喜劇人』「大阪の影」より)

 

 

東京語(共通語というべきか)は確かに、言葉のニュアンス面で言うと、生硬で窮屈だ。美意識として言葉を弄すべからずみたいなことがあるのかもしれない。
関西出身の村上春樹が、言葉の扱いという面で頭一つ抜けている理由も、そこらへんにあるのかもしれない。

 

中学生の頃、学校のクラス対抗ディベート大会に出て、我がクラスは敗退したのだが、私は審査員の先生方の協議により当初は設けられていなかった個人特別賞をもらった。

ディベートのテーマは、死後の世界は存在するか、否か。我々のクラスは「存在する」の立場であった。一緒にクラス代表となった女子生徒が、相手の鋭い突っ込みにキレてしまい、むちゃくちゃなことを言い出したのが敗因だったと思う。私は「存在する」例証として、いくつかの信憑性のある幽霊目撃談とアメリカ、ソ連の軍関係の研究施設で霊魂や超能力の研究が行われていることをディベート材料として用意していたが、そんなことをただ真面目に主張してもつまんないので、少々ギャグっぽい色づけをした。先生方がそういう点を評価してくれたなら、ありがたいと思う。しかし、幼少時に大阪人に囲まれて育った境遇により、平均的な東京人より言葉が多かったことに気づかれたろうか? 私は大阪の言葉のニュアンスを持て余しながら、日々を屈託しながら、生きていた。

今でも新幹線で関ヶ原を越えると、私はなんとなく大阪の言葉を話している。そして、どこかほっとするのである。

ちなみに高校以降、次第に私は訥弁になるが、それはまた別の話となるので、ここでは展開しない。最近の若い人たちの反政府デモなどを見ていると、共通語文化の窮屈さとか、次第に昭和の陰影を帯びてくる先鋭化が少々気になるのだが、うまく言葉にできない。きっと歳だな。

 

日本の喜劇人 (新潮文庫)

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