プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

1968年

 

f:id:indoorffm:20110812152953j:plainMiles Davis “Filles De Kilimanjaro (1968)

 

一九六八年は、多くの変化に満ちた年だった。だが、オレの音楽に起こった変化ほどエキサイティングなものはなかったし、そこらじゅうで聴かれる音楽も、信じられないようなものばかりだった。(中略)音楽の世界は、一九六七年から一九六八年頃にかけて大きな変化を遂げて、新しいことが次々に起きていた。

マイルス・デイビス/クインシー・トループ『マイルス・デイビス自叙伝』中山康樹訳)

 

 

一九六八年当時、エレキギターはまだ不良の持ち物だったと思う。グループサウンズで失神する女の子もいた時代だ。日曜日、親につれられてデパートに出かけると、デモの大学生たちのおかげで、なかなかバスが目的地に到着しなかった。この時期、ビートルズは「サージェントペパーズ」から「ホワイトアルバム」、ストーンズは「サタニック・マジェステイーズ」から「ベガーズ・バンケット」、ビーチボーイズは「ペットサウンズ」から「フレンズ」、マイルスの友人であったジミ・ヘンドリックスは「エレクトリック・レディ・ランド」を発表。レッド・ツェッペリンドアーズ、ザ・バンド等がデビューし、キング・クリムゾン、イエスなどが胎動期であった。時代が次の時代を求めて表現者に力を与えていた。そんな印象がある。何がそうさせたのか。ベトナム戦争の激化に伴う、カウンターカルチャーの興隆という解釈が一般的だが、私はそれは違うと思う。おそらくテクノロジーの進歩=録音機材と楽器等、表現ツールの多様化・高機能化がもっとも大きな要因であろう。マイルスの「エキサイティングな」変化も、音楽を“電化“したことによるものだった。「マイルズ・イン・ザ・スカイ」「キリマンジャロの娘」「イン・ア・サイレント・ウェイ」、そして「ビッチズ・ブリュー」。マイルスは、前出の自叙伝でこんなことも言っている。

 

 

ミュージシャンは、自分が生きている時代を反映する楽器を使わなきゃダメだ。自分の求めているサウンドを実現してくれるテクノロジーを活用しなきゃならない。エレクトリックが音楽をダメにすると考えている純粋主義者はゴマンといるが、音楽をダメにするのは、どうしようもない音楽そのものなんだ。

 

 人のクリエイティビティを刺激するのは思想ではなく、道具。だが、人はそれをなかなか認めようとしない。精神の価値を何より高く置きたいからだ。だが、

“電化“のしようのない表現分野が、急速な退潮傾向を見せ始めたのは、やはりこの頃からだろう。果たして、重要なのはツールなのか、フィロソフィなのか。いままた、書籍や音楽のデータ化の中でそこがなんだかよく見えてなくて、個人的には「ケッ」という感じなのだが。

 ちなみに一九六八年は私が小学校に入学した年で、この年から義務教育の教育課程が改正され、史上もっとも内容豊富の詰め込み教育全盛時代が始まったらしい。まったく気がつかなかった。そんな私の子どもたちはゆとり教育で学んだ。ほんとうに遠いところまで来てしまった。