プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

倭国から日本へ。岡田英弘著『倭国』より抜粋。

 僕は古代史に関しては、中国・東洋史パースペクティブで古代の日本列島を捉えている岡田英弘先生の学説にもっとも納得を感じている。『日本書紀』の周囲をぐるぐる旋回しているだけの「日本史」プロパー学者の説は、どれもファンタジーとしか思えないから。唐の脅威におびえながら統一王権の正当性を主張する目的で編纂された『日本書紀』は、天武・持統朝が大陸および半島の関与なしに日本列島内で自生的に発展して生まれたものであるというフィクションを正史として書き記したものに過ぎない。

ときおり新聞を賑わす「邪馬台国」論争なんてもうアホらしくて。古代史分野では考古学と歴史学の線引きがいい加減なのも悩ましい。

倭国―東アジア世界の中で (中公新書 (482))

倭国―東アジア世界の中で (中公新書 (482))

 


上記の岡田著作より「日本」成立の経緯の部分を以下に抜粋してみたけど、やっぱり説得力あるなあ。

<7世紀までの日本列島の実情は、倭人の集落と秦人、漢人高句麗人、百済人、新羅人、加羅人など、雑多な系統の移民の集落が飛び飛びに散在する、文化のモザイクのような地帯で、倭国といっても純然たる国境を持つ国家ではなく、倭王があちこちに所有する直轄地というか私領の総和が倭国なのである。つまり倭王というものが先にあって、その支配下にある土地と人民が倭国なのである。倭国という国家があってそれを治めるものが倭王だったというわけではない。こういう状態のまま、日本列島の住民たちは、663年の白村江の敗戦を迎えたのであった。>・・・195ページ

 

白村江の戦いの意義は、今日では想像できないほど大きなものだった。第一に、これは国際関係のルールがすっかり変わったことの象徴である。3世紀末に中国の人口が10分の1に激減してから、長い長いあいだ中国は分裂状態が続き、周囲の諸民族に対して影響を及ぼすほどの政治力、軍事力を持たなかった。それが唐朝の初期の7世紀半ばには、中国の統一の回復と戦乱の終結のおかげで、人口は3世紀の水準にほぼ近い5千万人弱まで増加して、再び中国は周囲の諸民族に対して圧倒的な優位に立つことになった。・・・195~6ページ

 

<日本列島の住民にとっては、660年の百済の滅亡、663年の白村江の敗戦、668年の高句麗の滅亡、それに引き続く新羅の半島統一という、国際環境の急激な変化の衝撃は深刻であった。倭国百済と結んで唐と新羅を敵に回し、しかも敗れたという事態は、日本列島が中国大陸・朝鮮半島から政治的に絶縁したことを意味した。当時の日本列島の住民にとって、事実上、中国と朝鮮だけが世界だったから、倭国は文字通り世界の孤児となってしまったのである。

 心理的な衝撃だけではない。経済上の問題はさらに大きかった。紀元前4世紀に燕人がはじめて朝鮮半島の南部の真番の地に達し、ここに拠点を築いてから千年のあいだ、日本列島の開発は、まったく半島経由で流れ込む中国の人口と物資と技術に頼り続けた。さらにこの千年の後半期には、倭人のほうからも積極的に半島に進出し、新しい文明を吸収してきた。それが今や唐朝のもとで生まれ変わった中国の巨大な実力と敵対関係に立つことになった・・・>197~8ページ

 

<実は、白村江の敗戦のあとで天智天皇が実施した大規模な改革の内容は、『日本書紀』では年代を繰り上げて「孝徳天皇紀」に入れ、645年のいわゆる大化の改新の記事にしてしまっているのである。>・・・198~9ページ

 <どうして『日本書紀』がそんなことをしたかというと、理由は、『日本書紀』は天武天皇が着手した歴史編集事業の成果だからである。天武天皇壬申の乱で、兄の天智天皇の子の大友皇子を倒して政権を奪ったのである。だから天智天皇の業績をあまり持ち上げては、現政権に憚りがある。しかし一方、天武天皇の皇后の持統天皇、その腹に生まれた草壁皇太子の妃の元明天皇は、いずれも天智天皇の娘で、天智天皇の仕事をまったく黙殺するわけにもいかない。そこで天智天皇孝徳天皇の皇太子となって、はじめて国政に発言権を持つようになった645年に『近江令』の内容を繰り上げてしまった。こうすれば、一つには天智天皇の改革が、孝徳天皇の手柄になって、その意義が薄まる。二つには、何も白村江の敗戦の結果、あわてて改革を実施したのではなく、その20年ほど前からすでにやっていたことだ、ということになって、プライドが傷つかずにすむ。そういう性質の歪曲である。>・・・199~200ページ

 

<『日本書紀』の筋書きは、まったく日本列島を中心にして出来上がっている。天孫が天上から日向の高千穂に降臨するのは、皇室はこの日本列島に自生のもので、外国とは関係ないんだ、という主張である。これは白村江以後、九州が国防の第一線となって、未開拓の南九州を確保する必要上、皇室と隼人とを同祖、したがって同じ日本民族と主張するために作られた話で、きわめて起源が新しい。

神武天皇に至っては、『日本書紀』の「天武天皇紀上」に明記されている通り、壬申の乱の最中、天武天皇側に加護を与える神霊として、はじめて人間界に出現したもので、それ以前には名前さえ知られていなかった。そして仲哀天皇神功皇后は、白村江の敗戦が作り出した神々である。>・・・201ページ

 

天智天皇の日本建国の当時、独自のアイデンティティを保つためには、中国語系の言語も採用できなければ、新羅と共通の要素の多い百済任那系の言語も採用できなかった。残る選択は倭人の言語だが、倭人はこれまで都市生活と縁が薄く、したがって文字の使用にも習熟していなかった。新しい国語の創造を担当したのは、これまで倭国の政治、経済の実務にたずさわってきた華僑である。彼らの言語は朝鮮半島の土着民の中国語である。

 それが自分たちの言語を基礎として、単語を倭人の土語で置き換えて、日本語が作り出された。日本語が作り出された。日本語の統辞法が韓国語に似ていながら、語彙の上ではほとんどまったく共通なものがないのはこのためであり、また日本語に漢語が絶無に近いのもこれが原因である。日本語はこうして作られた、人工的な言語であった。倭人の言葉とは、おそらく非常に違っているのであろう。

 『万葉集』の歌人のなかで、確かにその歌の作者と認められる最古の人は舒明天皇で、天智・天武兄弟の父である。この人の時代から、多くの歌人が輩出するが、そのうちの大きな部分がいわゆる帰化人であることが知られている。これを従来は、外国人がいかに速やかに固有の日本文化に同化したかを示すものだと考えがちだったが、事実はその反対だったろう。すなわち固有の日本文化というものはなかった。日本の建国運動を推進した華僑たちこそが、新しい日本文化を作り出したのであった。すべては7世紀の国際環境の産物である。

 こうして倭国の時代は終わり、日本の時代が始まった。今から1300年前のことである。>…204~5ページ