プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

Aujourd'hui, dans l'histoire...(歴史の中へ)

 

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f:id:indoorffm:20150609234546g:plainf:id:indoorffm:20150609234606g:plain THE BEATLES

人間、或る程度馬齢を重ねてくると自分の記憶が歴史になっていくやるせなさを味わう。白黒テレビとか、ビートルズとか、全共闘とか。僕は大学のフランス文学科というところを卒業したが、今はその名はない。「フランス語圏文化学科」というのだそうだ。フランス文学科は歴史になった。はあ。やりきれないので当時のゼミの先生(もちろん故人)の訳書をパラパラめくっているとこんな一節が目に入る。

「いかにして人間は、歴史の中で、歴史を通じて、また歴史に対して、自己を人間となしうるか」(J・P・サルトル文学とは何か』
白井健三郎訳)

これは「われわれの問題とは?」何かという設問へ答えであり、若者に対する一種のエールのような言葉なので、あまりおじさんとしての私にはなぐさめとはならない。しかもその自己を人間となしうるプロセスの中で人間が持つ理念とか理想が、「思考」や「判断」に枠づけ をしてしまい、認識の広がりに限界点を設けてしまう弊害を知っている。ベーコンの言うイドラ=先入見である。

「人間精神は本来、ものの中にある以上の秩序と類似を想定しがちである。自然は例外と相違に満ちているのに、精神はいたるところに調和、合致、相似を見る。そこからあらゆる天体の運動が完全な円を描くというあの作りごとが生まれてくるのである」(F・ベーコン『ノーヴム・オルガヌム』岡島亀次郎訳)

しかし、イドラを想定しないとおちおち生きていけないのも人間精神の特色である。卑近な我が国の例で言えば、天皇制護憲平和主義もある人々にとってのイドラであり、かれらはそこから決して前に進むことができない。天皇制護憲平和主義も予定調和の世界である。すなわち人間精神の堕落のはじまりがそこにある。

我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何ものかカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。(坂口安吾『続堕落論』)