プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

志村けんの死が意外となんだかボディーブロー

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志村けん(敬称略)の死はある程度予期していたので、特に意外ではなかった。
新型コロナウイルスによる肺炎で入院し、人工呼吸器を付けられている…と聞いた時点で死ぬ確立は高いなと思った。ヘビースモーカーだったし(四年前に肺炎をきっかけにやめたらしい)、大酒飲みなので肝臓や血圧も怪しい。

しかし、まずネットニュースで訃報に接して重いボディブローを喰らったようなショックを感じた。おかげでその日にやろうとしていた仕事の7割程度しか捗らなかった(言い訳ではない...と思う)。

一言で言えば、かつて世話になった親族や仕事の同僚が急にこの世から消えたような喪失感を感じた。最近、志村が出演するような番組は滅多に見ることはなかったし、深夜にたまに目にした彼が演じる下品なおじさんにも正直飽きていたのに。訃報と共に今まで忘れていたヘンなおじさんが幼き日の思い出と共に急激にクローズアップされた。ドリフの番組は今の時代では捉えにくい子どもたちの共通言語みたいなものであったので、好むと好まざるにかかわらず、どこかわれわれ世代の血肉となってしまっている。

 

さらに言えば僕はもともとドリフターズにおける志村の前任者・荒井注のファンであり、「八時ダヨ!全員集合」で荒井の後釜としていかにも若僧然とした志村が登場してガッカリしたことを覚えている。当時のドリフのスターと言えば加藤茶だったが、やさぐれてちょっと斜に構えた荒井の「なんだばかやろう!」と呟く芸が大好きだったのだ。その荒井・志村交代劇の放送日が訃報が伝えられた3月30日(1974年)と知り、またショックを受けた。単なる偶然だが、めまいがした。

 

僕が志村の凄さに圧倒されたのは加藤茶との「ヒゲダンス」だった。ファンキーなBGMをバックにした無言コント。お腹がよじれるほど笑わせてもらった。動きとリズムだけでこれだけ面白いということが新鮮だった。すでに好きだったロック音楽への没入の速度を一層速めた要因になった。「東村山音頭」でのジェームス・ブラウンのパロディも面白かった。ああいう説明する必要のない馬鹿馬鹿しさは大好きだ。

しかしその後、僕は「ひょうきん族」などのニューウェーブ勢の笑いを好むようになった。よりパンキッシュな話術のリズムが当時の自分の感性にフィットしたし、やがてドリフがすっかりオールドウェーブに見えるようになっていた。

その後、特に深くドリフや志村けんに傾倒することはなかった。しかしたまに見かける志村に「やっぱりこの人さすがだな」と思う事はしばしばあった。バカ殿やヘンなおじさんの演じる彼の芸の「型」は、正直、下手な伝統芸能演者よりよっぽど洗練されていると思った。しかしその中身はあくまで下品でバカっぽい。そのことに全力投球したのが志村の芸なのだろう。そのベースにはバスター・キートンがあり、R&B音楽があるのだが、志村自身がそれを誇ることはなかった。出てくものはおっぱいであり、ちんちんである。

故人のご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

ミシェル ウエルベック『地図と領土』を読んだよ。

※ややネタバレ有り。

地図と領土 (ちくま文庫)

地図と領土 (ちくま文庫)

 

1976年生まれの現代アーティストのジェド・マルタンが、2046年に70歳で死ぬまでの物語。第二部では作者ミッシェル・ウエルベックが重要な役割を果たす人物として登場し、無惨なカタストロフを演出する。そして終盤にはウエルベック殺人事件を捜査する警察官が視点人物として大きくフィーチャーされる。

 

建築家・経営者である父、子どもの頃に自殺した母。その一人息子として育ったジェドは、人との交わりに関して積極的ではない孤独な男だ。そこにロシア系の女性オルガが登場してロマンチックなムードが高まるが、お互いに思い合う気持ちがありながらその恋は成就しない運命にある。そのリリカルな悲しみはウエルベック作品には珍しい筆致だ。

 

ジェドは祖父の遺品であるリンホフカメラで機械や工具など工業製品の撮影でフォトグラファーとしてのキャリアをスタート。次に「スキャンしたミシュラン道路地図」をデジタルカメラで撮った作品シリーズが現代アートとして成功を収める(タイアップしたミシュランの広報担当がオルガだ)。ところがジェドは突然カメラを捨ててしまい、今度は絵筆を手にして職人の肖像を描き始める。最初は無名の職人だったが、やがて大金持ちになった2人の職人ビル・ゲイツスティーブ・ジョブスがチェスをしながら情報科学の将来を語り合う場面を描くまでになる。この職人の肖像シリーズの個展カタログの解説の書き手として選ばれたのが超人気作家ウエルベック。二人の交流はごく短い言葉少ないものとなったが、きわめて密度の濃い邂逅として描かれる。

 

ウエルベック殺人事件捜査を指揮するジャスラン警視は、まるで死神のように、物語の幕引きのために突然物語の前面に登場する。有能な警察官のはずだが、まるで颯爽としていない。さまざまな屈託を抱えながら事件の謎に迫っていく。そしてジェドの証言によって明らかになった意外かつあっけない事件の真相。ジャスランは事件だけではなく自分のキャリアを締めくくる事実と直面した。

物語のエピローグは存外に長い。過去の父との邂逅、その死への慟哭。ジェド自身は、そして作者は、物語に「結末」を与えることができないように見える。そして結末のかわりに置かれたピリオドが「ジェドの死」だった。これ以上ない過激なストーリーテリング。読者は静謐な地獄に置き去りにされる。快感。

利休忌に「へうげもの」を読み返そうかと考える。

 

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今日は利休忌で、その弟子であった「(古田)織部の日」でもあるという。

慶長4(1599)年の今日、千利休を継いで豊臣秀吉の茶頭となった古田織部が、亡き師を想って自分で焼いた茶器を用いて茶会を催した。織部焼の始まりである。


その師弟二人が重要人物として登場するマンガ「へうげもの」は2005年から2017年までの約12年間にわたり週刊「モーニング」に連載された“戦国大河絵巻”だ。主人公は古田織部で、利休は前半部の最重要人物として主人公に多大な影響を与え続ける。


歴史フィクションは、最低限の史実の上でどれだけオリジナリティのある遊びを披露できるかが勝負なのだが、その点では極上の作品となった。平成を代表するマンガの一つだろう。

章タイトルは洋楽や歌謡曲などのパロディで、作品中にも「ナボナの王選手」などさまざまなTVコマーシャルのパロディがストーリーの流れの中に挟み込まれていく。戦国武将たちの顔やキャラクターも現代の有名人を参照にしており、加藤清正具志堅用高になぞらえられていることには大笑いだし、細川幽斎が子孫である「細川護煕」の顔なのも唸った。利休の茶友である高山右近細川忠興蒲生氏郷、織田有楽斉らのキャラクターも楽しい。そして同僚であり、やがて上司であり、時に仇敵であり、実は心の友である木下藤吉郎豊臣秀吉は、常に物語に緊張感を与え続ける存在である。

このマンガの序盤最大の事件である本能寺の変は、フィクションで描かれた本能寺の変史上最も途轍もないものと断言できる!ここに描かれた信長の最期には驚いたし、笑ったし、そして泣いた。もちろん今年の大河ドラマの主人公である明智光秀も前半のストーリーで大きな役割を果たす。おそらく徳川家康江戸幕府設立は光秀の太平への思いを成就させるための営為だったと作者は考えているのだろう。家康の転機となる光秀の死の直前に、ずっと後年の江戸期に芭蕉が詠んだはずの「月さびよ明智が妻の話せむ」の一句が登場するのが実にミラクルな展開であった。

そして中盤のハイライトであった利休の切腹の凄まじさ。漫画史上に燦然と屹立する名シーンだ。

史実通り、この作品でも織部徳川幕府から切腹を命ぜられるのだが、父家康に従いながらも織部と師弟の交情を交わす徳川秀忠が後半のストーリーに微妙な陰影をもたらした。

さあ、全25巻、どこから読み返そうか。やはり最初からか。

アマチュアとして生きる。

 

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体験という言葉の空しさ。体験とは実験ではない。それは人為的にひき起こすこともできぬ。ひとはただ、それに服するのみだ。それは体験というより、むしろ忍耐だ。ぼくらは我慢する──というよりむしろ耐え忍ぶのだ。
あらゆる実践、ひとたび経験を積むと、ひとはもの識りにはならない。ひとは熟練するようになる。だが、それが一体なにに熟練するのだろう?
アルベール・カミュ『太陽の讃歌』高畠正明訳 より)

 

飯を食って行くために人はプロになる。異論はあろうが、ま、大多数がそうである。私もそうだと思う。が、プロになりたいと切実に心からわき上がるものを持ったことはなかった。たま〜に、さすがプロ、と言われることもあるが、それほど私がよろこばないのはそのためである。仕事でも、芸事でも、プロの人はやはりすごいと私も思う。でも、そこには滲み出す退屈さがきっと同居しているのだ。

ちなみに(生きていれば)本日喜寿を迎えたジョージ・ハリスンは、ビートルズ時代から亡くなるまで、ずっと素人っぽいギタリストであった。そして、まさにその素人っぽさが最高!なのだ。もちろん、単に私の好みに過ぎないかもしれん。

拡散して生きる。それだけが今の願いだ。

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