プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

ジョン・レノンの逆襲

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今日はジョン・レノンの誕生日である。生きていれば79歳。

ビートルズ後のジョン・レノンの音楽がオノ・ヨーコと込みで語られることにとても抵抗がある。僕はむしろジョンの音楽活動のフォーカスを鈍らせた主犯がオノ・ヨーコだと考えており、もちろんそのラブ&ピースな寄り道でも何らかの成果をあげるところがジョンの天才性なわけだが、ソロ時代で一番好きなのはヨーコと別居している期間、いわゆる〝ロスト・ウイークエンド〟時代の作品だ。アルバムで言えば"Walls and Bridges”と“Rock 'n' Roll”、そしてそれらのアルバム・セッション時のアウトテイク集である“Menlove Ave.”となる。そしてこの時期のベストソングと私が考えるのが、この曲だ。"Walls and Bridges”のしっかりアレンジされたヴァージョンより、“Menlove Ave.”のギター2本とベース、ドラムだけのシンプルなヴァージョンの方がこの曲の美しさと鋭さがより浮き彫りにされると思っている。

邦題は「愛の不毛」だが、直訳すれば「お前が落ち込んでいる時は、だれもお前を愛せない」。ヨーコと別居して、西海岸で荒れた生活を送っている自分のことを自虐的に歌った….というのが通説だが、私はそうは思わない。

 

むしろ、ニューヨークに取り残されたオノヨーコへの当てつけの曲であるように思える。

たとえば、こんな歌詞。

 

僕は向こう側の世界に行ったことがある

だから僕はお前に全てを見せた 隠しごとなどなにもないよ

なのにお前は自分が愛されているかどうかを確かめたがる

いったいどういうことなんだ?

僕に見せてあげられるのはただ一つ すべてはショウビジネスということ

僕に言えることはただ一つ この世はショウビジネスだということさ

 

あるいは

歳をとって白髪になると、誰もお前を愛してくれやしない

動転している時 誰もお前を必要とはしない

誰もが、自分の誕生日を気にしている

お前が地下深く9フィートの底に眠る時、みんながお前を愛してくれるだろう

 

自分を支配しようとした挙げ句に家から放逐した妻ヨーコに向けた強烈なしっぺ返しに思えるのだが、違うかな?

18か月の〝ロスト・ウイークエンド〟が終わり、ジョンとヨーコが復縁するわけだが、二人の間にショーンが生まれ、ジョンは長い主夫生活、すなわちミュージシャンとしての休業期間に突入する。子育てをするジョンに「誰もお前を必要とはしない」....そんな空耳が聞こえたのかもしれない。1980年秋にヨーコとの共作アルバムでカムバックすると、その年末に射殺された。「お前が地下深く9フィートの底に眠る時、みんながお前を愛してくれるだろう」。その通りになった。ここは自分のことだったのだ。ピース!

 

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アンディ・ウォホールによる“Menlove Ave”のジャケット。素晴らしい出来。アンディはこのアルバムが発売されて間もなく亡くなった。

 

『松本清張ジャンル別作品集(1) 武将列伝』を読む。戦国から平和な時代へ。変革期を生きた武将たちの栄光と零落

松本清張ジャンル別作品集(1) 武将列伝 (双葉文庫)

松本清張ジャンル別作品集(1) 武将列伝 (双葉文庫)

先日、三谷幸喜監督「清洲会議」をテレビ放映していて、放映前の番宣で三谷監督自身が「丹羽長秀がこれだけクローズアップされた映画は他にありません!」と言っていて、確かにそうだなと思った。しかし、丹羽長秀を主人公にした短編小説があったはずと調べてみて、松本清張「腹中の虫」に突き当たった。この作品は長秀がもともとは目下の者であった木下藤吉郎羽柴秀吉に圧倒されていく様を書いた作品でおそらく「腹中の虫」というタイトルはそうした秀吉の不穏な存在感(獅子身中の虫)と、彼の死因となった寄生虫病を掛けている。

本書はその「腹中の虫」のほか、毛利元就、伊東祐義、足利義昭最上義光柳生宗厳・宗矩父子ら、安土桃山〜江戸初期の変革期を生きた武将たちを主人公とした短編アンソロジー。「腹中の虫」を含めて既読の作品も興味深く読み返すことができた。特に印象的に残った作品は「三位入道」。島津と大友という大大名に挟まれながらも九州の雄として名を馳せた伊東祐義の零落を、史実をベースにしながらも、清張らしく人生の裏表を伶俐に描いて余すところがない。他の作品も史実とフィクションの狭間に独自の人間観でリアリティを吹き込む手腕は流石である。

語られる思いと語られぬ思い

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

『風の歌を聴け』は、ヴォネガット太宰治カミュや初期の大江健三郎倉橋由美子等の作品とともに、私の進路に影響を与えた文学作品であった。この小説のイメージは「夏の終わり」だ。なので今頃の季節になると、この小説をことを思い返して、ぱらぱらと本をめくってみたくなる。

同時代にこの小説に衝撃を受けた多くの人が語るように僕も「日本語の小説はこういう可能性、書き方があるんだ!」という驚きを感じた。村上は最初英語で書いた小説を日本語で書き直すカタチでこの処女作を書き上げたと言っている。

 

高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか 語ることのできない人間になっていることを発見した
村上春樹風の歌を聴け』)

 この一節を初めて読んだ頃、私はまさに「高校の終わりの頃」だったし、上記の「思いつき」を自分も実行していたから、その部分でもほんとうに驚いた。
 いつその「思いつき」をやめたのか判然としないのだが、確かに私は自分の思っていることの半分しか語ることのできない(あるいは語ろうとしない)人間になっていった。「語る」と「思う」は、私にとって全く別の位相にある出来事なのである。「語る」ことのない「思い」は自分の中でずっとその出番を待ち続けている。機会を得て語られることもあるし、それっきり忘れ去られた「思い」もある。

 そしてこうした性癖は、不思議なことに私の職業にとって今のところプラスに働いているようなのである。

涅槃からの声、あるいは類型的な彼ら

とうに涅槃をすぎて (徳間文庫)

とうに涅槃をすぎて (徳間文庫)

 

世界は相変わらず19世紀である。だからいまだにダサイ小説が売れる。日本映画は相変わらずダサイ。マンガだってダサイ。インテリの悩みはここに尽きる──「どうして自分以外の人間はみんな類型的なんだろう?」

インテリが一流と二流に分かれるのはこの先である。類型的に取り囲まれてしまった自分の中だけに入っていくのが二流、「ヘエーッ!?」と言って、虚心坦懐に面白がるのが」一流。

もうおわかりだろう。山崎豊子の作中人物が類型的だと言って非難することが二流の証明でしかないことが。はっきり言って人間というものはことごとく類型的なものなのだから、人間を類型でとらえられない人間というのは、ダメなのよ。

橋本治『とうに涅槃をすぎて』「インテリの裏本──山崎豊子」)

 

“表現”というものにとらわれまくっていた20代の頃、何度も貪り読んだ1冊。

私はインテリではないが、類型を恐れる心がダサイということはよくわかる。類型を怖れ、避けたいという表現者は、結局、自らの自意識と対峙する段階に進めていないというだけだろう。橋本治がこの本で取り上げている山崎豊子山田風太郎有吉佐和子などは、自分の意識から自在に出入りしながら、作中人物を動かせるし、だからこそ他人の心を浸食するドラマを書ける。

 

安倍晋三小泉進次郎の言葉を嗤うのは簡単だし、まあ、嗤われても仕方ない部分が大いにあることも事実だ。しかし、彼らを嗤う大衆は結局、バカバカしく類型的な彼らの言葉に復讐される。現政権の支持率はその一つ証左だし、いま、バカにされまくっている小泉ジュニアは、案外と恐ろしい政治家に成長するんじゃないかと僕は感じているところだ。

橋本治の意見が聞きたいな。

 

 

「全裸監督」8月のファンタジー

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8月の個人的ハイライトといえば、やはりNetflix「全裸監督」の公開だろう。これは実に良くできたドラマで、十分な資金と時間をかけて、そして何よりスポンサーや世間への過度な忖度さえなければ、日本でもこれだけのレベルのドラマを製作できるのだと、あらためて感じ入った。村西とおる役の山田孝之をはじめ、満島真之介玉山鉄二柄本時生石橋凌リリー・フランキーといったキャスティングが抜群。黒木香を演じた森田望智さんは、それほど顔が似ているわけでもないのに、ドラマが進むにつれて黒木香にしか見えなくなってくる。恐るべき新人だ。その黒木香の母親役の小雪と、歌舞伎町のヤクザ役の國村隼が、それぞれ別の理由でものすごく恐い。恐すぎる。夏の怪談を見た気分だ。もちろん褒め言葉です。

それとあの時代の歌舞伎町をセットで再現した制作陣に脱帽だ。こればかりはCGでごまかすわけにはいかないだろう。


玄人界隈ではほぼ絶賛の声が満ちあふれている「全裸監督」だが、このドラマの存在自体に疑義を呈する向きもある。

 

まず、アダルトビデオ業界は性差別や搾取など、イリーガルな要素がつきまとう世界だということである。前科7犯でもある村西とおるをヒーローとして描いていいのか?というポリティカル・コレクトネス的な話である。しかし、こういう人たちに対しては実際に見てみろよ、というしかない。

「全裸監督」では、主人公村西とおる監督をヒーローとして描いているわけではない。彼独自の常人離れした人間性と周囲との関係のなかで生じてくるイリーガルな問題は作品中でしっかり刻まれている。しかしそれはストーリーのなかに溶かし込まれ、スピーディーに流れていく。結果、村西は現実の村西以上のフィクションとしての完成度が高い村西になっている。これは脚本、演出、そして役者たちの演技力の賜物だろう。そうこの作品は決して実録物ではなく、実在人物をモデルとしたコンセプチュアルなフィクションである。アダルトビデオ業界を描くにあたっての社会的なコンセンサスについて十分に考慮された実によくできたエンターテインメント作品なのだ。
しかしながら、実際に「全裸監督」を見ても「いかがなものか?」という人もいるかもしれない。そういう人は「シン・ゴジラ」みたいな子供だましフィクションでも見ていただくしかないだろう。

 

もう一つ、本作品が「黒木香」本人の許諾を得ないまま制作されたことを批難する向きもある。たしかに同意はあるに越したことはない。しかし私は、本作品は「現在の黒木香」への十分な配慮がされた作品だと感じられた。作中ではその本名はもちろん、出自や家族関係などが改変された完全なフィクションになっている。フィクションとしての「黒木香」へのこだわり、そして黒木への愛に満ちた脚本と演出、共演者の絡み方に私はとても感動した。黒木本人はここらへんをどう感じるだろう?

15年ほど前、黒木香は雑誌記事などがプライバシーおよび肖像権の侵害に当たるとして、出版社などを相手に民事訴訟を起こしている。そのうち数社の案件で黒木の訴えが認められた。引退後の消息・プライバシー侵害に関しては姉や職場といった本人以外への実害があり、その点が裁判官に認められた形だった。では『全裸監督』は黒木の意に染まぬ、プライベートでの実害を伴う映像化だったのか?

そもそも『全裸監督』は、2016年に出版されている『全裸監督 村西とおる伝』(太田出版)という書籍からの映画化であり、黒木の実像がより詳しく描かれたこの原作を本人が訴えたという話は聞かない。また、引退後の黒木香についてインタビューを交えて描いた井田真木子『フォーカスな人たち』(新潮文庫)では、本人だけでなく、村西や家族、さらに黒木が通っていた女子学院高校の教師にまで詳しい話を聞いているが、この本に対して黒木がクレームを入れたということはない。家族や本人に関するかなり際どいプライベートなエピソードが語られているにも関わらずである。
『全裸監督』という映像作品に埋め込まれた現在の黒木香に対する配慮(及び愛)を読み取らず、第三者が勝手に黒木香の気持ちを忖度して、正義感を訴えるご意見はいかがなものか、と思うのだ。


 ドラマ自体が素晴らしいのはもちろんだが、音楽も実にいい。オリジナルのオープニング&エンディングテーマだけでなく、劇伴の選曲センスも素敵というしかない。音楽担当の岩崎太整という方は、山田孝之が主演していた傑作テレビドラマ「dele」の音楽も担当していたと知って納得した。この人のセンスは好きだ。Spotifyでは使用曲のプレイリストが出来ていた。

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このリストの中で特に印象的だったのは、第7話で使われたクラウデッド・ハウス「Don't Dream It's Over」だ。懲役370年の刑でハワイの刑務所に服役していた村西とおるが、スタッフや黒木香の尽力で釈放され、娑婆の空気を吸った瞬間にギターのイントロが流れる。あの時代の空気を嗅いだ気がした。汚泥と金粉と汗と狂気にまみれたその臭いを知っている人にとってのファンタジーがここにはある。

「全裸監督」、第2シーズンが始まる前にもう一度通しで見返そうと思っている。

 

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今週のお題「残暑を乗り切る」

先週土曜日の日経新聞に「片頭痛」の健康コラムを書きました。

 

 

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先週土曜日の日経新聞に自分自身も悩まされている「片頭痛」に関する健康コラムを書きました。夏から秋の温度変化、気圧変化が激しい時期は片頭痛持ちにとってつらい季節なのです。でも、敵の正体さえキチンと知れば決して恐れることはありません。そういう趣旨のコラムです。


片頭痛はその人の脳が人並み以上の高機能・高感度だからこそ起こる痛み。芥川龍之介の「歯車」は片頭痛の予兆である歯車状に見える光がモチーフと考えられており、ショパンルイス・キャロルと言った天才肌の芸術家、フロイトキュリー夫人といった新しい分野を切りひらいた科学者も片頭痛持ちだったと言われています。 .....まあ、実際に痛いときにはそんな話、なんの慰めにもなりませんが。



『ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』(池内紀)雑感

 

ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか (中公新書)

ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか (中公新書)

 

本書の著者である池内紀フランツ・カフカギュンター・グラスの翻訳で知られる独文学者で歴史の専門家ではない。これら20世紀文学を扱った文学者の宿題として「ヒトラーの時代」を書かねばと言う思いが本書の執筆動機だという。

出版以来、事実関係や翻訳の細部に関する誤りが近現代史専門家から指摘され、芳しくない話題で沸騰してしまった。だが、私は面白く読んだ。「日本人カメラマン名取洋之助」のエピソードや「亡命ハンドブック」の話は本書で初めて知った。

第一次世界大戦後、ベルサイユ条約によりヨーロッパ各国に骨抜きにされたドイツ・ワイマール共和国には国民の不平不満が渦巻いていた。政権は短命に終わり、経済政策はことごとく功を奏さず、英仏などへの戦後賠償が国家財政に重くのしかかっていた。

そこに現れたのがアドルフ・ヒトラー国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)だ。ゲッベルスによる広報活動も功を奏して、合法的に政権の座についたヒトラーは失業者対策を推進し、国民所得を倍増させ、公共工事アウトバーン建設など)を拡大し、安価な国民車フォルクスワーゲンを提供した。動物保護法、森林荒廃防止法など環境保護やタバコの害など公衆衛生にも熱心だった。船旅のプログラムで労働者に安価なレクリエーションの機会も提供した。ヒトラーの評伝を書いたジョン・トーランドは、もしヒトラーが政権4年目に死んでいたら、ドイツ史上もっとも偉大な人物のひとりとして後世に残っただろうと述べている。

わが国で10年ほど前にタレント弁護士によって大阪で始まった一連の〝維新〟騒動や、今回の参院選での元タレント俳優による〝新選組〟ムーブメントなどは、期せずして国民の不平不満を点火剤とするナチスの手法を踏襲している。しかし、ネット時代においてその仕掛けは容易に見透かされてしまうので、いまのところ国家を席巻するほどの爆発的な広がりにはならないだろう。ゲッベルスやレーム、ヒムラーなどの有能な人材もいない。

ただ、安心はできない。社会の不平不満を弁舌巧みに一刀両断する”カリスマ”的存在が現れると、長年の不遇をかこつている(と自分で信じ込んでいる)人々が一種の熱病に罹ってしまったかのように、いい加減な甘言に惑わされてしまうのは現在も同じだ。それなりの人生経験や教養があると考えられる人ですらその中に含まれる。

本書を通して、ナチスの甘言に最後まで乗らなかったマレーネ・デートリッヒの矜持を持ちたいものだと意を新たにする。