プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

銅像になってしまった園長先生

私の出身幼稚園の門の所に創立者夫妻の銅像が建っている。

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園長夫妻の銅像。妻が園長。夫はおそらく理事長だったんだと思うが、園児の前にはほとんど登場することはなかったので顔はまったく覚えていない。

 

わが家から1kmもない所で隣にマルエツがあるため、今もしばしばその前を通る。

何を隠そう私はこの幼稚園の第一期生なのだ。

入園式前日、私は自分の母親、近所の友だちとその母親とで園庭に入って遊んでいた。

いまではあり得ないことかもしれないけれど、まだ開園していないのに普通に園内に入れた。

子どもたちはピカピカの遊具で遊び、母親たちはおそらく子どもたちの明日からの幼稚園生活について話をしていた。

そこへ園舎の中からニコニコしながら中年女性が出てきて「こんにちは!」と母親たちに挨拶した。

「明日からヨロシクね」と私たち子どもに向かってもていねいに頭を下げ挨拶した。

それが園長先生だった。派手な顔立ちの女性でパーマのかかったヘアスタイルが

その年の夏に放映が始まった特撮TVドラマ「マグマ大使」の悪役ゴアに似ていた。

幼稚園の行事では羽織袴の和服を身につけていたことも覚えている。

僕は家庭の都合でその幼稚園に合計1年ちょっとしか通っておらず、

結局、なんだかんだあって卒園もしていないけれど、

今は銅像になってしまった園長先生のとびきりの笑顔が

自分の子ども時代、すなわち人生の始まりのような気がしているのだ。

『九人と死で十人だ』(カーター・ディクソン)雑感。

 

九人と死で十人だ (創元推理文庫)

九人と死で十人だ (創元推理文庫)

 

参加しているとある書評サイトで、書評を執筆することを前提に献本として本書をいただいた。

カーター・ディクスンによるH・M卿ことヘンリ・メルヴェール卿モノの1作。これまで文庫化されたことがなかったようで、私も今回この作品を初めて知った。意外とおもしろかった。

この時期の他のディクスン作品と同様に第二次大戦下の時代状況がストーリーに大きく反映されている。本作の舞台はニューヨークから大西洋を渡って英国に渡る大型客船。しかし搭乗客は9人だけで、爆撃機と爆薬を輸送することが航海の主目的だ。武器を積んで英国に渡る船は、ナチスドイツのUボートに見つかれば、あえなく魚雷で撃沈されてしまうだろう。この舞台設定だけでサスペンスムードたっぷりといえる。

そしてそんな危険を承知で乗り込んだ9人の搭乗客もワケありな面々が揃う。検事補、医師、トルコ外交官の元夫人、英語が不自由なフランス軍大尉、元外務省勤務の若い貴族、情緒不安定な若い女性、ゴム印製造会社の経営者…ストーリーの進行を担うマックスは傷心を抱えて渡英するジャーナリストで、船長の実弟だ。

マックスは第一の殺人の第一発見者となり、必然的に事件の核心部分に巻き込まれていく。死体に残された指紋は船客と乗務員の誰のものとも合致しない。航海中の船内という閉ざされた状況での凶行にもかかわらず、船に乗っていない犯人による殺人という不可思議な状況が浮かび上がる。乗客の誰かがナチス側のスパイやシンパではないかという不安も増幅される。そして第二の殺人…さらなる殺人の恐怖におびえる船客たち。

船長のたっての要請により、実は密かに乗船していた元英国陸軍情報部部長H・M卿が事件解決に乗り出す。この性格が悪そうで巧まざるユーモア感覚を持つアクの強い名探偵は、ウィンストン・チャーチルがモデルとなっているそうで、なるほど禿頭と低い鼻、苦虫を噛みつぶしたような口元とは、実にチャーチルの大きな特徴だ。

傍若無人なH・M卿は、犯行の状況を整理する中で犯人と思しき人物から殴られ負傷してしまう。後ろから殴られたため犯人の顔を見てはいなかったが、H・Mはマックスにこう言い放つ「「わしには既に殺人犯の正体がわかっておるからな。犯行の動機と手口もだ。(中略)つまり、事件の全貌を解明したのだ」。

トリックは「な〜るほど」と思えるシンプルなもの。犯人も「あるいは?」と思えた人物で事件解決に意外性だけを求めるとやや肩すかしかもしれない。しかし、登場人物の個性と来歴の謎や面白さを楽しみながら読むと、事件に対する趣は深くなるだろう。意外なハッピー・エンディングもなかなか良い感じだ。

カーター・ディクスンディクスン・カーの怪奇趣味や複雑なプロットはここにはないが、巻末解説にもあるとおり、戦争という状況と人間の心模様が犯罪トリックに結びつくストーリー展開は、一種の反戦文学かもしれない。国家の威信と大義のため多くの人が殺される戦時下において、取るに足らない一人の死の意味を徹底的に追求する推理小説とは実に皮肉の効いた代物ではある。そう考えるとタイトルの意味も味わい深い。

仕事や家事が滞りがちに… ストレス蓄積の兆しかも

style.nikkei.com
7月28日(土)の日本経済新聞NIKKEI プラス1に書いた健康記事です。
なかなか夏バテから回復せず、夏休み明けのこの時期は憂鬱な気分になり、なにかとストレスをためやすいかもしれません。くれぐれもご注意を。

小学館「P+D BOOKS」礼賛

 

夏の砦 (P+D BOOKS)

夏の砦 (P+D BOOKS)

 

以前は文庫本で代表作の多くが入手できた戦後昭和文学の作家たちの作品がいつのまにか入手困難となっている。

文庫本というのはある程度の古典は網羅するけど、戦後の作家など中途半端に古く、忘れ去られつつある作品群を絶版にしなければならない事情は十分に理解できる。著作権が切れた作品はそのうち青空文庫でも読めるようになるので、出版のモチベーションはますます低くなるに違いない。

でも、小説好きとして中高生から大学生にかけて読んだ昭和文学作品が商品として消えてしまうことは、なんか残念だな~と思う気持ちは残る。高校時代に愛読した倉橋由美子や大学の恩師の一人である辻邦生の文庫本も書店で見かけることが少なくなって寂しい。

3年ぐらい前に配本が開始された小学館の「P+D BOOKS」シリーズは、そうした作家たちの作品を「P(=ペーパーバック)」と「D(=デジタル)」の二種類の形態で提供するという面白い試みだ。

 

「P+DBOOKS(ピープラスディーブックス)」

 

ペーパーバック版は文庫版よりやや大きなB6判で、欧米のそれとと同様のチープな紙質と簡素な装丁。価格帯は税抜き450~650円と現在の文庫本よりむしろ安い。ただ、扱っている書店は限られているようだ。kindle版は200~300円台とさらに安い。

 

ペーパーバック取り扱い店舗リスト

 

現在までのラインナップでは中上健次福永武彦辻邦生遠藤周作北杜夫吉行淳之介、小川国夫など中高生から大学生にかけてむさぼり読んだ作家が網羅されているのがうれしい。丹羽文雄川端康成武田泰淳などの戦中から活躍していた大物から、新しいところだと栗本薫干刈あがたの名も。中上健次立原正秋に関しては、なんと別に電子版のみの全集も出されている。現在も月に一度のペースで毎回2~4冊の新刊が配信&配本されている。最新刊は野球がテーマの短編集『白球残映』赤瀬川隼芥川賞受賞の戦争文学『プレオー8の夜明け』古山高麗雄。なるほど時宜を得ている。

 

 小学館さん、ぜひこの企画をまだまだ続けてくださいませ!

 

失われた名盤④『C-ROCK WORK』 ZELDA

 

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C-ROCK WORK

 

 1987年発表の第4作。ムーンライダース白井良明がプロデュースした前作「空色帽子の日」(1985年)は、統一感溢れるサウンド構成によるコンセプチュアル・アートとも言える傑作で本作と甲乙つけがたいわけですが、本作も元四人囃子佐久間正英氏による、ロックバンドとしてのリアリティを感じさせる骨太のサウンド・プロダクションが素晴らしい日本語ロック屈指の名作です。まさに捨て曲なしの全10曲。サウンドへのこだわりやリズムの周到さはまるでビートルズの作品を思わせます。バンドリーダーである小嶋さちほさんの弾くトリッキーで曲を躍動させるベースラインは、ピーター・フック(ジョイ・ディビジョン~ニューオーダー)あたりの影響大と見ました。当時で言うヘタウマそのもの。

 でもCDで長く廃盤状態が続いています。実にけしからん!そういえばこの「C-ROCK WORKS」を含むゼルダソニー時代の作品を5CD+1DVDでまとめたボックスセットが、予約が一定数に達すると商品化されるという話もあったが、あれはどうなったのだろうか?

 先日、夜中にLPレコードを引っ張り出してこの「C-ROCK WORK」を聴いてみました(このアルバム、どうしても夜に聞きたくなります。「空色帽子の日」が明るい日差しの中で聞きたくなるのと対照的です)。同時期のガールズバンドSHOW-YAPRINCESS PRINCESSなどのように〝懐メロ臭〟漂うこともなく、ZELDAの個性が時を越えて輝いています。もちろん自分が中高年おじさんになった今や、高橋佐代子嬢の書く歌詞だけを眺めると気恥ずかしさを感じたりもするわけですが、それがサウンドと一体になった時に押し寄せる情感の厚みには、やはり圧倒されるものがあります。メンバーは私と同世代(±2~3歳)なので、ZELDAの音からは、10代~20代に出会った(必ずしも恋愛絡みとは限らぬ)数々の同世代女子たちの香りが立ちのぼってくるようです。素直さ、純粋さ、狡猾さ、しぶとさ、あざとさ、弱さ、強さ・・・いろんなものが混ざり合った神の造形物としての彼女たちも、私と同じ50代なわけです。今でも彼女たちは女の子であるのでしょうか。それとも・・・・そんなことを考えていたら眠れなくなりました。

 私が特に好きなのは、夜の帳が降りてくるようにゆっくりしたテンポでひたひたと始まる1曲目「よるの時計は12時」、痙攣するギターリフを背景に、たゆたうメロディが無差別絨毯爆撃のように愛憎を噴出させる最終曲「浴ビル情」、そしてあその2曲にはさまれたブラックメルヘン的な「大きなのっぽの古時計」ともいえる「時計仕掛けのせつな」と、セクシュアルな暗喩をストレートなロックサウンドと文学少女的ながらも硬質なレトリックによって、爽快かつ格調高く(?)歌い放つ「Question-1」。

 

朝の眩しい光は 世界平和の訪れ

いやしいバスターミナルの 行列の利用

朝の白い光は 世界破滅の訪れ

知られざる日常の隠された一環

 

きみは問いかけられ

きみは目を伏せる

きみは問われてる

(Question-1 歌詞抜粋)

 

 ああ、聴けば聴くほど素晴らしくて、目を伏せてしまう。レコード会社は即刻、この作品をリマスターして再発すべし!

『絶滅の人類史〜なぜ「私たち」が生き延びたのか』(更科功 著)雑感

 

絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか (NHK出版新書)

絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか (NHK出版新書)

人間は万物の中で最もすぐれているものとされていた時代にはしばしば「万物の霊長」という言葉が使われた。最近はあまり使う人がいなくなったが、本書を読むとその理由がある程度理解できる。

広い意味での人類は700万年前にチンパンジーとの共通祖先から枝分かれして独自の進化を遂げたが、その理由は必ずしも人類の優秀性を示すわけではなかった。むしろ人類は住み心地の良い森林から押し出された弱者であり、飢餓と肉食獣の脅威におびえる中で生きながらえてきた。

 

決して恵まれた居住環境ではない疎林や草原でどのように生命をつないでいくのか…著者が紹介する最新の人類史の成果とは、そんな苦肉の策の先で偶然と幸運に支えられて紡ぎ出されたストーリーだ。読みながら思わず「よく絶滅しなかったな〜」とその幸運を祝福したくなるぐらいだ。

 

直立二足歩行と脳容量増加の関係、体毛がなくなった理由などの仮説も実に興味深かった。特に男が配偶者や子どもなどに狩猟の獲物を(手に持って)持ち帰るためというまるでマイホームパパみたいな志向によって獲得したのが直立二足歩行….という仮説には驚かされた。まあ、あくまでも仮説ではあるのだが、面白いと思う。

 

人類はホモ・サピエンスだけでなく、数万年前まではネアンデルタール人をはじめ何種類の人類が同時に存在していたという事実も興味深い。そしてホモ・サピエンスの存在がネアンデルタール人の滅亡を招いたという事実は実に重い。我々ホモ・サピエンスより、大きな脳と頑強な肉体を持っていたネアンデルタール人は、こすっからいサピエンスの知恵に追い詰められていった。そしてサピエンスは交雑によってネアンデルタール人の「いいところ」もちゃっかり取り入れて進化していったのだ。

また、インドネシアフローレス島に約5万年前まで生きていた成人の身長が110cmしかないホモ・フロレシエンシスの存在に深く興味を引かれた。日本神話の少彦名や一寸法師をはじめ世界各地の神話や伝説に残る小人のエピソードは、もしかしたら我々以外の人類の存在の記憶に由来しているのでは?と想像の翼が広がる。

 

あくまで一般読者向けに書かれた本なので作者はモノの例えとして鉄道路線やら、相撲の番付やら、燃費やらを使って説明する。そんな著者遊び心が楽しく、わかりやすさにも貢献している。まるでお茶を飲みながら、時にはアルコール入りのグラスを傾けながら、話が上手な人類史専門家から直接話していただいているような読み味だ。

 

かといって軽い読み物かと言えば決してそんなことはない。著者がさりげなく開陳する人類史の重要テーマと最先端の知見について、読後に自分でググりたくなること必至。人類史研究のめざましい進展と、それでもまだまだわからないことが膨大にありそうだと言うことが、愉快そうに語る著者の背景にどーんと広がっている…そんな知的興奮を存分に味わうことが出来る一冊だ。

S・アンダーソン『ワインズバーグ、オハイオ』新訳版を読んでみた。

ワインズバーグ、オハイオ (新潮文庫)

ワインズバーグ、オハイオ (新潮文庫)


先日立ち寄った本屋で新訳を見つけたので買ってみた。かなり以前、小島信夫訳で読んだ記憶があるのだが、「なんだかアメリカの小島信夫みたいな小説だな」という印象のかけらだけが残った。

アンダーソンはアメリカ20世紀文学の父とも言える存在で、フォークナー、ヘミングウェイスタインベックなどが彼の作品の影響下にあると言われる。ただ、長編小説は不得意だったようで、代表作は基本的に短編小説だ。

本作の舞台は作者が創造した架空の町オハイオ州ワインズバーグ。このうらぶれた町に住むgrotesqueな人々を主役にした連作短篇だ。grotesqueというのは序章にあたる部分で作者によってワインズバーグの人々の特徴として使われている言葉で、小島信夫はそのまま「グロテスク」と訳した。新訳では「いびつな」と訳されており、これは訳者がこの言葉に「滑稽」や「愛おしい」ニュアンスを加えたかったからだという。私はそれは正解だと思った(訳者の経歴を調べてみると私の出身大学の教授だった)。各作品ではセックスの問題が重要なモチーフとなっており、LGBTに関わるきわめてシリアスな作品もある。

収録された短編は一つ一つ独立した話であるが、各作品に地元紙の若い新聞記者ジョージ・ウィラードが共通して登場し、全体としてウィラード君の成長物語としても読むことが出来る趣向になっている。一つの町を舞台としたこうした短編連作は現代に至るまで多くの小説家が試しているが(たとえばジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』や山本周五郎青べか物語』)、もっともよく知られている本作品のインスパイア作といえばレイ・ブラッドベリ火星年代記』だろう。ブラッドベリは同作の序文には次のように記している。

「ああ」と、私は叫んだ。「こんなにすばらしくなくてもいい、これの半分だけすばらしい本でいいから、舞台をオハイオ州ではなくて火星に変えて、ぼくが書けたとしたら、どんなにすてきだろう!」(小笠原豊樹訳)

 そして火星行きのロケットはほかでもないオハイオ州から打ち上げられることになったのだ。

新訳版「ワインズバーグ、オハイオ」はとても読みやい訳文で、「ジョージ・ウィラード成長物語」という基本線が以前よりくっきりと見える印象を受けた。訳文のおかげだけでなく、初読時はまだ20代だったから、そこからの年月が私にこの作品を見通すパースペクティブを与えてくれたのかもしれない。約100年前の作品だが、作中人物が意外なほど現代的な人物像に近接していることにも驚かされた。まあ、100年程度では人間の根本はそれほど揺らがないということだろう。

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)