プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『ポーの一族 春の夢』雑感。

ポーの一族 ~春の夢~ (フラワーコミックススペシャル)

ポーの一族 ~春の夢~ (フラワーコミックススペシャル)

 

萩尾先生は本気だ。

 

40年前、紅蓮の炎の中に消えた主人公たちとともに、完全に終焉を迎えたと思われていた『ポーの一族』の物語。昨年、40年ぶりの新作が掲載された雑誌がたちまち完売してしまった騒動も記憶に新しい。出版社はあわてて電子版を臨時出版した。それだけ多くの人が続編を渇望していたのだ。すなわちそれだけ多くの人の心がこのバンパネラの物語に侵食されていたのだ。もちろん僕もその一人である。


第一話(Vol.1)の雑誌掲載時、旧作との絵柄の変化に戸惑う暇もなく、時の向こうからやってきたエドガーやアランがページの中で動きだし、言葉を発するのを見て、僕は「ポーの一族」の世界観が微動だにしていないことを確信した。第2話以降、その確信は深まるばかりだった。

 

新作は決して「昔の名前で出ています」的な、懐メロ歌手やロックバンドに多い腑抜けたリバイバルなどではない。旧作で残ったままの伏線や読者が感じるだろう謎を作者なりに受け止めて、人生の様々な経験をくぐり抜け大人となった読者の期待に真正面から応えうる新しい物語を紡ぎだした。そんな萩尾先生の本気 度に感涙を禁じ得ない。ほんと泣くよ。

 

今回単行本となってまとめて読み返してみると、旧作との大きな違いは、絵柄とかキャラクターの性格付けといったディティールではなく、作品世界全体を見る作者の視座ではないかと思えた。簡単にいうと萩尾先生が、昔より一段上から、いわば俯瞰的に登場人物たちや作品世界を見渡しているように思えた。おかげで「春の夢」では、旧作で実態がよく分からなかった「ポーの村」のこと、ポーの一族以外にこの世界に存在する吸血一族のこと、エドガーがパートナーを求める理由などが次々と明らかになってくる。

同時に、作者が作品世界から少し距離を取ることで、登場人物を一層突き放して見るようになった印象を受けた。もともと萩尾先生は、登場人物の悲劇を描くことに長けている。ポーの一族で言えば、メリーベルやアランの最期など、読者的に「なぜだ….萩尾先生、鬼…」と恨みがましい思いを抱かせることを辞さない創作者魂を抱えたお方だ。新作「春の夢」のカタストロフ的なラストの展開は、これまで以上の酷薄な(←褒め言葉です)筆遣いにより、図太い中高年のおっさんである私の胸を太いニードルのようなものでグリグリとえぐった。ああ、かわいい、しっかりもののブランカ….。

 

この1巻で「春の夢」のストーリーは終わったが、来春より新たな「ポーの一族」の連載がスタートするという。今回登場した吸血仲間のファルカ、ポーの村の邪悪なクロエ、さらに死せるブランカのその後の動向はいかに? そして新たな能力を獲得したエドガーは、火災によるアランと自身の消滅というストーリーを書き換えることができるのか? ああ、楽しみで、楽しみで、楽しみで……夏と秋と冬をまとめてすっとばしたい気分です。

『ミッドナイト・アサシン アメリカ犯罪史上初の未解決連続殺人事件』 (スキップ・ホランズワース)雑感

 

ミッドナイト・アサシン アメリカ犯罪史上初の未解決連続殺人事件

ミッドナイト・アサシン アメリカ犯罪史上初の未解決連続殺人事件

 

本書は「ミッドナイト・アサシン」と呼ばれる100年以上前に米国で起こった未解決の連続殺人犯を追うドキュメンタリーである。
僕は知らない街を歩いていて、モニュメントや石碑があるとつい立ち止まってその由来書を読んでしまう。土地の有力者による自己顕示などたわいのないものも多いが、その街で起こった意外な出来事や思わぬ街の来歴について知識を得ることが出来、その場で深い感慨に耽ることも少なくない。本書を読みながら、それと同じような感慨を覚えた。

米国テキサス州の州都オースティンの「モニュメント」の一つに、街の各所に建っている古い鉄塔がある。19世紀末に建設され、当時は鉄塔のてっぺんに取り付けられたアーク灯で街の隅々まで照らされたという。その建設理由というのが、1884年12月から始まる連続殺人事件が市民に与えた恐怖を取り除くためだというのだ。しかしそのことはどこにも書かれていないし、市や州の歴史を調べても明文化されていない。なんとなく口づてに100年以上の時を超えて伝えられてきた噂にすぎない。

現在ではハイテク産業と音楽文化の興隆などで、全米屈指の経済発展力を有するオースティンだが、19世紀末の時点では、南北戦争の傷から立ち直らんとする人口数万人程度の片田舎に過ぎなかった。そこに意欲的な市長や州知事が登場し、テキサス大学(1883年開学)や全米随一と目された巨大な州議会議事堂などを建設して街の近代化に邁進……していたところに起きたのが「ミッドナイト・アサシン(深夜の暗殺者)」事件だった。町づくりへのモチベーションに冷や水を差したこの事件は、1884年の年末に起きた黒人奴隷女の殺害に始まり、翌年のクリスマスイブの2名の白人既婚女性の殺害に至る7件(8人殺害)の「連続殺人事件」だった。当初別々の事件と思えたものが残虐な手口や被害状況等から次第に同一犯の疑いが濃厚になっていく。何人もの容疑者が逮捕されたが、結局いずれも犯人とは決められなかった。
 
作者はテキサス州オースティン在住のベテラン作家・ジャーナリストで、当時の新聞や裁判記録などをくまなく漁り、膨大な史料をじっくり読み込み、その成果を駆使して、7つの事件の経緯と当時のオースティンをまるで見て来たようにいきいきと再現する。その手腕は確かなものだ。きめ細かく描かれた街の情景や時代の空気感が、数々の一筋縄では行かない登場人物をリアルに見せてくれる。惨劇に関係なくとても興味深い街であり、そこで生活しているのは、それぞれにユニークさを持つとても人間くさい人々だ。ちなみに登場人物の一人には、後の有名短編小説家O・ヘンリーもいる。またここでは詳述しないがスティーブンソンの「ジキルとハイド」も微妙に事件と絡んでくる……この感じ、なにか覚えがあるなと思ったのだが、あのTVドラマ「ツイン・ピークス」を彷彿とさせるのだ。あのドラマも殺人事件と土地が密接に結びついたプロットだった。また『呪われた町」など、スティーブン・キングの初期作品も同じムードを持っていたと思う。

オースティンの事件から数年経ち、英国ロンドン下町で売春婦の連続殺人事件が起きる。有名な「切り裂きジャック」事件だ。英米の新聞だけでなく、ロンドン警視庁さえ、「切り裂きジャック」の正体が、大西洋を渡ってきたオースティンの「ミッドナイト・アサシン」ではないかと疑った。
ロンドンの「切り裂きジャック」は伝説のサイコキラーとして現代まで伝えられてきたが、その〝先達〟であるオースティンの「ミッドナイト・アサシン」に関しては、現在では土地の人々でさえ噂することは少ないという。オースティン在住の作者も1988年までまったく知らなかったらしく、前述の鉄塔がこの事件に由来することを教えられ、仰天している。片田舎からの脱却、経済的・文化的発展をめざしていた当時のオースティンの街の人々は、むしろこの忌まわしい事件自体を無かったことにしたかったのだろう。そのもくろみは成功した。作者はその隠された事件のベールを、当時のオースティンを文章上で再現しながら、あらゆる角度から一枚ずつめくっていく。そこに見えてきたものは何か…。

本書は陰惨な連続殺人事件のドキュメントとしてだけではなく、事件のフィルターを通してオースティンという街が近代化をめざした端緒を語る歴史書としても読めるだろう。読後の深い感懐は、先に挙げたフィクション作品と共に、ギボンやミシュレなど欧州の歴史書のそれとも似ているように思えた。作者のオースティンの街に対する深い思い入れと史実探究への執念が、確実にこの作品の完成度を支えている。将来、私がオースティンに行くことがあれば、ぜひ本書を片手に「鉄塔」の下に佇んで、真夜中を駆け抜けた殺人者についての感慨に耽りたいと思う。

ウルトラセブンと玉川学園

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先日仕事で玉川学園を訪れた。創立者自ら鍬を持って山と雑木林を切りひらいたというキャンパスは、最近では話題のテレビドラマ「やすらぎの郷」のロケ地にも使われており、多彩でユニークな造作の校舎と生い茂る雑木林の豊かな緑でちょっと散歩するのも楽しい。スズメバチマムシ注意の看板もある。

キャンパスの真ん中辺りに大学工学部の校舎があって、その玄関の所に印象的な碑文が掲げられている。いわく「神なき知育は 智恵ある悪魔をつくることなり」創立者小原國芳の揮毫だという。

 

小原は周囲にこの言葉がガリレオ・ガリレイが発した言葉と言いふらしていたらしいが、それは彼一流のジョークだったようだ。実際はナポレオンと闘った英国の将軍ウェリントンの「宗教なき教育はただ悧巧なる悪魔をつくるなり」を小原なりに翻案した言葉だという。一連のオウム事件が起こった頃、僕は仕事のため頻繁に玉川学園のキャンパスを訪れていて、この碑文を見ながら思わず溜息をついていたことを覚えている。

 

碑文が設置されたのは1966年らしいが、その2年後に特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』第18話「空間X脱出」で、ウルトラ警備隊隊長のキリヤマがこんな台詞を言っている。「(隊員たちに向かって)こんな言葉を知っているか?神なき知育は、知恵ある悪魔をつくることなり…。どんな優れた科学力を持っていても、奴(ベル星人)は悪魔でしかないんだ!

この回の脚本家は金城哲夫。沖縄出身だが上京して玉川学園高等部〜玉川大学文学部で学んだ。彼の脚本による『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の回には名作が多く、そのプロットにはしばしば沖縄戦の影が見え隠れする。この回は学生時代に馴染んだ恩師の言葉を、一種の徒心だろうか、隊長のセリフとして試してみたわけだ。

金城はその後、円谷プロを去り、故郷・沖縄に戻るが、若くして不可解な事故で死んだ。享年三十七。同じ沖縄出身でウルトラシリーズの脚本家だった上原正三による伝記『金城哲夫 ウルトラマン島唄』は、その生き急いだ生涯を同郷の友としての視点から熱く描いている。また昨年、「ウルトラシリーズ」放送開始50年を記念して、彼の名を冠した脚本賞円谷プロダクションクリエイティブアワード 金城哲夫賞」が創設された。彼の人生は昭和という時代の光と影でもある。

金城哲夫 ウルトラマン島唄

 

一方「最後の私塾創立者」と呼ばれた玉川学園創立者の小原國芳は、教え子の金城より長く生きた。満90歳で亡くなる直前まで、車いすで児童・生徒・学生の前に現れ、講話・講義を行っていたという。彼の自伝 『教育一路』はとても面白い本だ。福沢諭吉の『福翁自伝』もそうだが、私学経営者というものは教育への情熱とともに、時代と切り結ぶ山師的なセンスも必要なのだとつくづく思わせられる。現在、私学の問題で政局が揺れているが、そうした山師の存在を許さない世知辛い世の中が果たしていいものかどうか…。水清くして魚棲まず。

 

現実の上空2mよりの落下。

 

海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)

 

モンドがどこから来たのか、誰にも言えなかったに違いない。ある日たまたま、誰も気がつかないうちにここ、私たちの町にやって来て、やがて人々は彼のいるのに慣れたのだった。

(J・M・G・ル・クレジオ『モンド』豊崎光一/佐藤領時訳 冒頭部)

このように始まる短編小説を読みながら(これで4度目だ)、私自身がいる「町」の人々が、私が「ここ」にいるのに慣れてしまっている現実から数センチ上をゆっくりと歩いていった。訳者の一人である豊崎氏(故人)は私が在籍した大学学科の教授で、別の先生(こちらも故人)による大学のゼミナールでこの小説を翻訳が出版される前に読んだことがあった…などと昔のことを憶ってみるが、あの頃は現実から2メートルぐらい上を歩いていた様に思う。でも、みんなはそんな私が「そこ」にいることに慣れてくれた。みんなも現実から1・5メートルくらい上を歩いていたからだ。

当時、自分が「ここ」まで来るとは思いもしなかった。では一体「ここ」とはどこなのだ。私は今、現実の数センチ下に居るのかもしれない。そんな気がする。

彼はすっかり暗くなるまで、灯台が規則正しく四秒ごとに合図を送り始めるまで釣りをしていた。

(上掲書・ラスト部分)

そして物語はこのように唐突に終わってしまうのだ

夏がくれば思い出す。死について断片的に。

 

ナボコフの1ダース (サンリオ文庫)

幼い頃は人の手のことをいろいろ知っているものだ。手というものはいつも背の高さあたりにふらふら住んでいるからだ。マドモワゼルは気持ち悪い手をしていた。

ウラジミール・ナボコフナボコフの1ダース』より「マドモワゼルO」中西秀男訳)

 前回の続きのようでそうでもない話。

 かつて私は神経質な子供と言われていたが、今では無神経なおじさんと呼ばれつつある。自分ではまだ、神経質な少年のつもりだが、しかし子供の頃、ひどく気になったり、不快だったりしたことが、なんだかそれほど気にならなくなっていることは事実だ。それどころか、不快だったはずことがなんとなく良い印象さえ覚える様になっている。特に感覚や身体がらみのことにそうした事例が多い。あとはちらかった部屋とか。それを克服といっていいのかどうかはよくわからない。人間が長く生きていれば、いろんな変化があるし、若い頃の自分とは異なる自分を楽しめることに感謝するだけだ。無神論者なので神にではない。

 逆に若い頃はまったく眼中になかった「死」というものに対する感覚が、鋭敏になってきたような気がしている。死ぬのが怖いとかいうことではない。身近な人が死んでいくのをいくつも目にしているうちに、周囲の人に与える影響を含めた「死」の諸相への関心が高まりつつあるのだ。また、死んだ人が「生きることができなかった時間」を思うにつけ、生死が表裏一体となった自分の限りある人生への重いが深くなった。

 

 今月亡くなった野際陽子さんの死に様にも大いに関心を抱いた。飄々としているように見えて、きわめて自分の厳しい美学を強いていた方だったと言うことが、亡き人を惜しむ同業者たちの哀悼の言葉から浮かび上がってくる。実にかっこいい人生だったと思う。

 

 以前、私が小学校4年生の時にサッカー部の先輩がプールの事故で亡くなったことを書いた。あれは夏休み前の7月初旬だった。 僕より3歳年上だったので、生きていれば来年は還暦を迎えたはずだ。

 

 10年ほど前に、娘の幼稚園時代の同級生のおかあさんが亡くなった....と聞いたのは梅雨の明けやらぬ6月末ごろだった。大腸がんで3年ほど闘病生活を送っていたという。私も幼稚園の行事や遠足などの機会に何度か話をしたことがある顔見知りで、大柄で健康的な感じの美人であった。しかもそこのうちの息子は、幼稚園時代の娘がいたずらっこにちょっかい出されると、かばってくれたりしたので私としてはとても好感をいだいていた。坊主頭で体格がよく、素朴な表情が印象的で、なんだか1960年代の子供みたいだったことを覚えている。卒園後は地域の関係でうちの娘と別の小学校に進んだ彼が、母の死という重みになんとか耐え、しっかりと成長していってくれることを心から願う。今は娘と同じ二十歳だ。

歌舞伎役者の奥さん(元アナウンサー)のガン死も話題となった。四半世紀ほど前だが、僕の従姉も小さい子どもを残して33歳でガンで亡くなった。残された子どもを心配する声も聞かれるが、子どもはけっこう逞しいモノですよ。それに歌舞伎役者のようにしっかりした「家」があればまず心配いらないのではないか。

 

昨日は2歳で病死した妹の仏壇の写真を替えた。たった2歳だ。それがどういう人生だったのか(2歳の娘を亡くした親というものの気持ちも)、この半世紀、しばしば考えた。現在生きていれば53歳のおばさんだ。そして、その”片割れ“は見事におばさんと化している。妹は双子だったのである。ビートルズが来日した年に死んだ妹は、両親の、そして兄である私の手が見えていただろうか? 

おばさんになったお前に会いたかった。

ビートルズ来日後、妹の死により家族は分解し、ポールの才能が爆発した。

道路でやっちまおうぜ。誰も見てないし。道路の上でやっちまおうよ。

 


Why Don't We Do It In The Road - Paul McCartney w/ Neil Young @ Desert Trip, Coachella, 10-15-16

 

昨年はビートルズ来日50周年だった。シェイスタジアムのライブ盤もCD化・映画化され、仕事場のBGMであるFMラジオで、6月頃から年末までビートルズナンバーがしょっちゅう流れていた。でも、まったく飽きない。で、あらためてビートルズの曲はラジオから流れてくるのを聴くのが、いちばん具合がよろしい、ということにあらためて感じ入った。当然ながらジョージ・マーティンを中心としたビートルズチームはそういう風に音作りをしていたわけである。だから、基本的にビートルズはモノラルで聴くのが正しい。でもまあ、そんなことはどうでもいい。来日した1966年、私は4歳半だったので当然ながら武道館には行っていないが、来日騒ぎはなんとなく覚えている。確か、NHK朝のテレビ小説で「おはなはん」をやっていた年だ。すでに高度経済成長は始まっていたが、繁華街に傷痍軍人の姿を見かけるなどまだ戦争の匂いがあちこちに残っていた。4歳の私はビートルズの「イエーイエー」よりベンチャーズの「テケテケテケテケ・・・」の方が子供心にインパクトを感じていた気がする。そしてビートルズが日本を去っておよそ2ヶ月後に、双子の妹のうち一人が2歳でこの世を去った。私はその意味がよくわからず、告別式の日、家のリビングルームにしつらえられた祭壇や豪華な袈裟をまとった僧侶が来たことで、なんだかウキウキしてしまったのである。妹は死んだが、ほとんど同じ顔をしたもう一人が生きていたので、悲しさもほどほど、といったところだったのかもしれない。だが家庭に与えた影響は甚大で、その後、我が家はしばらくの間、空中分解した。また、ビートルズはこの年でコンサート活動をやめ、翌年、バンドの立役者であったブライアン・エプスタインが不可解な死を遂げた。上に引用した曲は、来日2年後の1968年に発表された「 THE BEATLES(通称:ホワイトアルバム)」に収録されたポール・マッカートニーの単独作で、上の歌詞を何度も何度も繰り返しシャウトしまくるパンクっぽいブルースというべきナンバー。ドラム以外の楽器は自分で演奏している。当時、メンバー中でも一番とんがっていたのがポールで、同アルバムにはポール作のヘヴィメタルな「ヘルター・スケルター」も収録されている。ボードヴィル調の「ハニーパイ」、生ギター弾き語りの名曲「ブラックバード」「マザー・ネイチャーズ・サン」もこのアルバムで、まさに才能爆発という感じ。ヨーコと出会ったレノンは、やや停滞していた。いまでは亡くなった元妻リンダの影響でベジタリアン&健康志向のポールだが、当時はラークを一日2~3箱空けるヘヴィースモーカーでもあった。

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4〜5枚目ぐらいに買ったビートルズのレコードがこれ。来日公演のステージ写真をあしらった日本独自シングルカット。

『ローマ法王になる日まで』を見たよ。

 

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 禁教となった日本でのイエズス会士の葛藤と悲劇を描いたスコセッシの『沈黙』を見てから4ヶ月。今度は初のイエズス会出身の現ローマ教皇フランシスコの若き日を描いた『ローマ法王になる日まで』を見に行った。
 
 フランシスコは開明的なPopeとして、ローマ教皇就任以来、クリスチャン以外からの人気も高い。イスラム正教会のトップとも気軽に面会するし、ロックスター教皇として米国の『ローリングストーン』雑誌の表紙も飾った。僕もこの人のことはこれまでの教皇とは違った目で見てきた。
 
 一方でアルゼンチン時代に、一般市民や宗教家を拷問・処刑した軍事政権に対する態度が甘かったとか、やはりカトリックなので妊娠中絶や同性愛に対する態度は頑迷だったという話も耳にした。
 
 では、実際はどのような人なのだろうか? そんな興味もあって映画館に足を運んだ。
 
 映画ストーリーは、後に自分がローマ教皇となるなんて想像もできなかっただろう青年ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが、ブエノスアイレス大学で化学を専攻する学生だった1960年から始まる。僕が生まれる前年のことだ。
 
 亡命中のペロンが大統領に復帰することを願うペロニスタでもあったベルゴリオは、やがて神に仕えることを決意し、大学の恩師の忠告に従って、付き合ってた女性ともきっぱり別れ、イエズス会に入会。その決意までの経緯はあまり明確に描かれていない(そこはこの映画の最大の不満点)。ちなみに大学の恩師であるエステルという女教授は、この後のストーリーにも密接に関わってくる。
 
 ベルゴリオは、イエズス会士として宣教のために日本に行くことを希望していた。彼は「沈黙」の時代を乗り越えた日本のキリスト教に対する関心が深かったのだ。しかし、教会はおそらく彼の将来性も踏まえてその希望を却下。神学校教授などを経て、30代にしてアルゼンチン管区長に出世した。
 
 しかし、時代はペロンの独裁政治とその後のビデラ軍事政権による圧政、いわゆる「汚い戦争」の時代に突入する。『沈黙』という作品では信者に対する拷問がことさらクローズアップされていたが、この映画では反政府派のキリスト者に対する射殺や拷問があたかも日常の出来事のように淡々と描かれる。大学の恩師エステルも弾圧の犠牲となるのだが、その殺され方があまりにも惨くて映画館の暗闇の中で呻きそうになった。
 
  映画はベルゴリオ管区長がいかに軍事政権の残酷な手口に抗ったかを描いていく….いや、どちらかというとさまざまな弾圧と反政府勢力双方に翻弄される姿が描かれる。宗教者として、必ずしも正しい道を選ぶことができない苦悩が描かれる。過酷な運命にもみくちゃにされ、しだいに疲弊していく若きキリスト者が描かれる。その無力な姿は意地悪な見方をすれば優柔不断とさえ思える。神の「沈黙」ではなく、聖職者の「沈黙」。
 
 やがて軍事政権は自壊、終幕を迎えるのだが、失意のベルゴリオはドイツで神学を学び直すことになる。そして、その地で「結び目を解くマリア」の絵と出会う。ここは胸が詰まるシーンだ。無宗教な僕が思わず「洗礼受けようかな」という考えがちらっと頭をかすめてしまうほどに。この映画のクライマックスシーンであり、映画はまだ続くのだがその後の教皇への道のりは、付け足しのエピローグに過ぎない。映画を見るものが、クールダウンして映画館の外の現実に戻るためのストーリーだ。
 
 現実のフランシスコは、教皇就任後、バチカン銀行を舞台にしたマネーロンダリングなどの金融犯罪撲滅の命を下し、聖職者の性的虐待についても厳格な対応を勧告した。その一方で、世界の指導者に地球温暖化防止を呼びかけ、アメリカとキューバの国交回復の仲立ちを務め、さらに反対していたはずの同性愛についても「もし同性愛の人が善良であり、主を求めているのであれば、私にその者を裁く資格などあるだろうか?[If someone is gay and he searches for the Lord and has good will, who am I to judge?]」とも発言している。妊娠中絶に関しては変わらず反対し続けているようだが、破門にはせず赦しを与えるというスタンスを示しているようだ。
 
 僕は無宗教だし、同性婚、中絶、婚前交渉、避妊、安楽死に強く反対するカトリックには、どちらかといえば反感すら抱いている。しかし、苦難の時代を乗り越えたフランシスコが世界に提示している新しい慈悲(とでもいえばいいのか?)のカタチには大いに期待している。そしてこのフランシスコを教皇に選んだローマ教会の枢機卿たちもたいしたもんだと思った。それだけ教会の存立への危機感がつのっていたということかもしれないが。

 Pope Francisぜひ、こんがらがってどうしようもなくなった世界の結び目をあなたの在任中に少しでも解いてやってほしい。アーメン。