プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

女子にはわからぬヒゲの話。

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今週はひたすら原稿を書き、企画をまとめる週ということで、もう3日もヒゲ剃っていない。明日からは外出・出張続きなのできれいさっぱりヒゲを剃り、連日のようにスーツを着ることになるだろう。

先日亡くなったキューバフィデル・カストロは戦闘服とヒゲ面がそのカリスマ性のシンボルだった。冷戦時代に何度もカストロの暗殺を試みていたCIAは、そのヒゲをなくせばカリスマ性もなくなるだろう……という冗談みたいな理由で、特殊な薬物によるヒゲをなくさせる作戦を実行したが、その企てが成功することはなかった。晩年のカストロは戦闘服ではなく米国のアディダスのジャージ姿だったけれど、特にカリスマ性が減退したように思えなかったので、たとえCIAのヒゲ抜き作戦が成功しても彼の地位はビクともしなかったと思われる。

 

20代の頃、私はヒゲが薄かった。というよりも、まともにヒゲが生え始めたのが二十歳過ぎで、人より随分と遅かったのだ。当然、その他の毛も遅かった。また、17歳までボーイソプラノでもあった。今となっては成長ホルモン障害かなとも思うが、親を含めて当時誰もそうした私の身体的な晩熟ぶりを気にかけなかったように思う。それどころか高校では、合唱部の先輩から「キミの声は素晴らしい。入部しろよ!」と1年半にわたって勧誘されたりもした。YESのジョン・アンダーソンのハイトーンがファルセットはなく、地声で歌えた。中学時代から音楽の四声合唱の時間はずっと女子のパートを歌っていた。今でも感覚的にはかなり高い声が出るような錯覚を覚えることがあるが、30年間タバコを吸い続けたこともあって実際には中低域にしか声の張りはない。
 

ヒゲの話であった。20代では3日に一度剃れば十分であった。30歳過ぎた頃から、朝剃っても、夕方じゃりじゃりするようになった。きれいに剃りたくていろいろな安全カミソリを試してみた。最初は2枚刃だったが、この四半世紀で製品は5枚刃まで進化した。いろいろ試してみたが、結局、3枚刃ぐらいがいちばん使いやすい。ビジネスホテル備え付けの2枚刃の使い捨て安全カミソリがあるが、あれが意外と悪くないし、コンビニでも売っている2枚刃の使い捨ても使いやすい。

 

今はシックの3枚刃とジレットの5枚刃を併用している。ベースのホルダー部分は刃の数が増えてもそれほど価格差はなく、かえって新製品は安売りしているのでつい買ってしまう。しかし、刃の数が増えると替え刃の価格が高くなる。つまり、これはパソコンのプリンターと同じ商売の仕方(英語で言うとビジネスモデル)で、なにかしてやられた気分になる。しかも、プリンターのインクには純正以外の廉価製品という選択肢があるが、安全カミソリの替え刃にそれはない。

 

刃の数が多くなっても、TVCMでやっているように、一剃りですっきり剃れるということはない。刃が増えるほど、カミソリ部分の幅が広がり、鼻の下や口元などが剃りにくくなって、かえって面倒だったりもする。ヒゲの質にもよるのだろうけれど、電気シェーバーも相性が良くない、ブラウンやフィリップスを試してみたが、いまいち。いつか国産メーカーも試してみようと思うが、肌と刃の間に金属板が介在する電気シェーバーの爽快感に欠ける剃り味があまり好きではないのだ。

ところでこういう話は女子のみなさんが聞くとどんな印象を持たれるのだろう。伊丹十三のエッセイ集に既婚女子による「生理についての座談会」というのが収録されていて、10代の僕は目の中が鱗だらけでのけぞるぐらい面白かったのだが、それに比べるとヒゲの話はちとせせこましいような気がしてきた。

 

 以下、現在愛用の安全カミソリを紹介。

シック プロテクタースリー ホルダー (替刃2コ付)

シック プロテクタースリー ホルダー (替刃2コ付)

 

 ※「キレてなーい!」のCMでおなじみの安定の使い心地。が、近年になって替え刃が何故か値上がりし、逆に耐久性が落ちているような気がする。同じホルダで使える安価な2枚刃替刃があるのでそっちにしようかな。

 

ジレット フュージョン5+1 ホルダー 替刃2個付

ジレット フュージョン5+1 ホルダー 替刃2個付

 

 ※カートリッジの裏に、鼻の下など5枚刃だと剃りにくい箇所を剃るための1枚刃(ピンポイントトリマー)が内蔵されている。で「5+1」というわけ。慣れれば使いやすいことは確か。

 

 

師走のパトリシア・ハイスミス

12月になると、パトリシア・ハイスミスの小説が読みたくなる。理由はわからない。
よって、以下とりとめなく書く。

Little Tales of Misogyny: A Virago Modern Classic (VMC) (English Edition)

見当違いの努力ばかりが繰り返されている精神病院。家庭を守るべき女たちが──生徒はほとんど女ばかりだった──最低限の家事さえ怠って出歩いているあいだに、いったい何組の家庭がトラブルに見舞われ、何人の子供や夫が不自由をかこっていることだろう? ボブの見たところ、この総合芸術学院には芸術の霊感はなかった。そこにあるのは、ショパンや、ベートーヴェンや、バッハなど、本物の霊感に恵まれた人々のまねをしたいという欲望だけだった。

パトリシア・ハイスミス女嫌いのための小品集 (河出文庫)』より「芸術家宮脇孝雄訳)

 

 本物の霊感なしに「表現」を行うために必要なのは、ゴミ捨てや家事と同様の報いのない繰り返しであり、そこに自分なりの快楽を見いだす想像力であろう。武道や舞踏などにも通底するが、日常の観察を怠らず、日々の生活の地平を着実に歩むことが大切となる。

かつてジェーン・オースティンは、家事の合間に、台所で小さな紙片に文字を書き綴り『高慢と偏見』や『エマ』を完成させた。しかし、だからといって誰もがオースティンになれるわけではない。現代の日本でつらいのは、表現者個人が歴史的記憶・感覚の欠落させがちなこと。歴史の感覚が欠けた表現は普遍性を獲得できず、仲間内でしか意味をなさない。当面の欲望を共有する人々の世間話といったところか。

インターネットは、この種の世間話の敷居を低くしたが、その一方で、霊感をもてあましながら、途轍もないポテンシャルをさりげなく示す人たちの存在をも明らかにしてきたように思える。「霊感なし」で、ひたすら欲望を持て余している人の居場所は、そういう意味でさらに狭くなっているのかもしれない。いわば知的格差社会だ。

 

 20世紀半ば頃から、そんな知的格差と性差のパーアスペクティブを皮肉な目で眺めつつ、即効性のドラッグと遅効性の毒を含んだ物語を紡ぎ続けてきた作家がパトリシア・ハイスミスだ。

 ハイスミスは映画にもなった『太陽がいっぱい』や『見知らぬ乗客』といった往年の名画や昨年公開されカンヌ映画祭でも高く評価された『キャロル』の原作者で、今で言うストーカー殺人の先駆とも言える「妻を殺したかった男」をはじめ、〝最悪の読後感〟が重要な持ち味のミステリ作家である。ポリコレだのLGBTだのの話題が喧しい昨今、彼女が生きていたらさぞややりにくかっただろうなと思う。いや、そんな世間のことなど歯牙にもかけず振る舞ったのかもしれない。おそらくそうだろう。米国人なのに後半生をほとんどヨーロッパで過ごしていることも米国のピューリタン的風俗が気にくわなかったからかもしれない。

一時期、小林信彦氏がプッシュしたおかげか、20年ほど前にハイスミス作品の翻訳本がかなり出た。私は長編を読んだ後に胸のむかつきがなかなか取れなず、もう読むもんかと思っても、なぜか次の本に手が出てしまう麻薬的な魅力に抵抗することができなかった。女嫌いのレズビアンでもある彼女の書いたものの中では短編集が比較的取っつきやすいかもしれない。

と思って検索してみたら、僕が好きなこの『女嫌いのための小品集 (河出文庫)』はすでに絶版らしく、Amazonでも英語のペーパーバック本しかなさそう。どうやら短編集としては『11の物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫) 』が入手しやすそうである。

 

11の物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

11の物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 



夢の夢

John Lennon-#9 Dream-Offical Video-HQ

 

 

今朝、明け方にものすごく印象的な夢を見たのだが、起きてみると印象ばかりが残って具体的なシークエンスが散逸してしまっていた。
 切れ切れになった夢の破片を拾い集めてみると……。
「ルイ王朝風の広間での同窓会」
「雪が本降りになる前に山からクルマで降りようとしたら山頂に迷い込んだ」
「ここは埼玉県狭山市
「好きだったあの娘と再会。額に汗が滲む」
「すべてがうまくいっているような気分」
ウクレレで弾き語りしている自分」・・・・さて、何の夢だったのであろうか。

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「フライ」と「プログレ」

 

フィッシュ・ライジング+2

 

「フライ」と「プログレ」、そして「アラブの春

 僕の趣味は釣りと音楽鑑賞と読書である。
 実に面白味のないラインナップだが、釣りでもっぱら楽しんでいるのはフライ・フィッシング(フライ)だし、音楽はロックを中心に幅広く聞くが、特に英国ロック、プログレッシブ・ロックプログレ)にそれなりのこだわりを持っているかもしれない。
 フライも、プログレも、わが国においてはそれぞれのジャンルの中で少数派である。そのせいか、身の回りにほとんど同好の士はいなかった。ただし、友人の釣り雑誌編集者のおかげで何人かの愉快なフライ仲間と出会うことができた。また、釣り場に行くと一期一会ではあるが、現場で出会った同好の士との話が弾むこともある。しかし、プログレを語り合う仲間というのは簡単には見つからなかった。
 その状況を大きく変えてくれたのがインターネットであり、SNSである。以前、こことは違うブログをやっていたときに数人のプログレファンと知り合ったが、ブログをやめてから交流もとだえがちになった。

 しかし2011年、Facebookでいくつかの音楽コミュニティと関わりを持ったおかげで、同世代を中心としたプログレ仲間が何人もできた。皆さんそれぞれ、これまでプログレを語る機会がほとんどなかったので、リアルに会ってみると10年来の友だちみたいに意気投合した。

 その後、その仲間たちのうち何人かとFacebook上のプログレファンのコミュニティを立ち上げたりもした。すると別に宣伝したわけでもないのに1年ちょっとしたら1500人ぐらいのプログレマニアが集まった。同じ年の「アラブの春」の時、Facebookは反政府市民のコミュニケーションツールになったが、なるほど人を結集し、結びつける力は侮れないなと感じた。プログレ・コミュニティは事情があって閉鎖したが、いまでもその仲間たちとはSNS上で深くつながり、来週も飲み会の予定がある。

 

「フライ」と「プログレ」、その愛好者気質の共通性

 すっかり前置きが長くなってしまったが、本題はここからだ。
 SNSのおかげでこれまで集団として接してこなかったプログレ愛好家と接しているうちに、僕は彼らとフライ愛好家が似ているのではないか……ということに気付いた。「いいところ」も、「悪いところ」も。
「いいところ」は、どちらも探求心が旺盛で、自分が求めるものに対して妥協しない生真面目さを備えていると言うことだろうか。


 フライフィッシングは、日本では70年代後半からアウトドアブームに乗って本格的な愛好家が増えてきたと思うが、当初はこの釣りのスキルや方法に関する情報が限られ、なおかつ従来の釣り人からは日本の風土には合わないと言われることも少なくなかった。初期のフライフィッシャーたちは、そうした逆境の中、それこそ試行錯誤しながら日本のフライフィッシングをつくりあげていったのだ。 そのフロンティアスピリットと探求心は、フライフィッシングの専門書や専門誌等を通じて現在にも受け継がれている。そうした先人たちの努力によって、いまやスキルや方法論でいえば、日本はフライフィッシングの先進国といっていいのではないか? ただこのジャンルでは高齢化が進んでいるようだ。一時、ブラッド・ピット主演の映画「リバー・ランズ・スルー・イット」による〝フライ・バブル〟もあって渓流に若い男女が押し寄せたこともあったが、現在はその跡形もない。


 一方、プログレッシャー(プログレ愛好家)たちは、70年代後半にディスコ、パンク、AORが席巻する逆境の中で、自分たちが愛好する「プログレ」というジャンルをあらためて強く意識することになったのではないか。それ以前、70年代前半のポピュラー音楽ファンは、ビートルズでも、プログレでも、グラムロックでも、ハードロックでも、ポール・モーリアでも、映画音楽でも、R&Bでもそれほどジャンルの壁を気にせず聞いていたと思う。しかし、逆境はかえってファンに「プログレ」へのこだわりとアイデンティティを強く意識させ、そこからわが国におけるプログレファンの明確なアティチュードが形成されていったように思える。各レコード会社から英国・米国以外のユーロロックのレコードが出たのもその頃で、またはビジネス的には失敗した二流・三流バンドの音源なども中古市場で発掘されていった。そこから規模は小さいながらも「プログレ」というジャンルに関わるビジネスやコミュニティの萌芽があった。今や日本のプログレファンの知識や見識、コレクションはおそらく世界に冠たるものだろう。21世紀の現在も「プログレ」がジャンルとして有効なのは、こうした日本ファンの忠実さ、生真面目さも少なからず関係しているのではないか。ただなにせ昔の音楽なのでこちらもファンの高齢化は顕著である。

 

「英国発祥」のプライド(?)と少数派の屈託


 では「悪いところ」とは何か。

 フライフィッシャーも、プログレッシャーも、少数派として自ら愛好するジャンルに生真面目に向き合ってきた。それぞれ日本独自の文化も創りあげてきた。しかしそのため、彼らの中に一種の偏狭さが養われていったようでもある。それが僕の考える「悪いところ」だ。
 たとえば、愛好家本人はそれほどはっきり言わないのだが、自分たちの愛好する「音楽」と「釣り」のジャンルが「いちばん偉い」と思いたがっている傾向がある。もちろん子供じゃないので明言はしないが、話を聞いていると見え見えだったりもする。しばしば他のジャンルを見下しているとしか思えない言動が見られることがあり、それは特に英国流崇拝のフライフィッシャーとクラシック好きのプログレファンに多い傾向かもしれない。

  やや極端に言えばこんな感じ。

 フライフィッシングは英国貴族発祥の由緒ある精緻な方法論に基づいた釣りである(そこら辺のエサ釣り師とは違う)。」


プログレは英国発祥で欧州古典音楽やジャズの素養を取り入れた複雑で高級なジャンルである(そこら辺のミーハーロックファンとは違う)。」

 とかね(笑)。


 しかし、フライフィッシングはともかく、そもそも「プログレ」なんていうジャンルは存在しないのだ。「プログレッシブ・ロック」という言葉の発祥は諸説あるが、所詮はレコード会社のマーケティングワードであり、その曖昧模糊としたジャンル設定は一種の幻影であり、バズワードでしかない。

 その存在しない「プログレ」のジャンル規定にこだわるのは愚か者だ。では「プログレ」という言葉は不要なのか? 僕はそんなことはないと思う。ある世代の日本のロックファンの音楽傾向を表す「プログレ」はまだありうるし、僕がSNSで多くの仲間を見つけたように、コミュニケーションワードとしてはまったく有効だと思う。しかしそれを一つの価値として掲げ、それに含まれないものを規定する排除の論理を行使するようになった途端にバカげた言葉に成り下がってしまう。

そしてそうした虚飾のプライドを背景に、持ち物自慢や経験自慢をまき散らし、さらには入門者や後輩にやたら「教えたがり」で嫌われるというのも「プログレ」「フライ」に共通した老害現象かもしれない。……いや、これはこの二つのジャンルに限らない世の中全般の老害現象であるか。

 

「フライ」と「プログレ」の食い合わせについて

 

 70年代プログレの方法論や技法は、今や同時代のポピュラー音楽の中にすっかり溶け込んでおり、「プログレ」が将来的に独立した音楽のカテゴリーとして存在すべき理由はあまりないのではないかと僕は考えている。
 フライフィシングも米国や日本、オセアニアに拡散してからは大衆の釣りとしてその様式や方法論が多様化しており、個人としてのプライドを持つのはかまわないのだが、貴族性なんてちゃんちゃらおかしいし、そういう訴求は初老以上にしかアピールしないだろう。日本の田舎のおっさんが、ださいファッションでもともと貴族のスポーツだったゴルフやっているのと変わらないのに、エサ釣り師を邪魔者扱いしたり、一段下に見たりする人がいるのが実に情けない。英国にそんなせこい貴族はいないだろう。

 

 なんだかんだ言って僕はフライもプログレも好きで、その愛好家の人と話すのも楽しいのだが、時々感じるせせこましい選民意識みたいなものがなければ、もっといいのになと思う。

 最後に余談。昔、前出のフライフィッシング専門誌の編集者と僕のクルマで釣りに行った帰り、眠気除けと景気づけにカーステで『クリムゾン・キングの宮殿』を流したら、その男が車酔いしてしまったことがある。本人的には車酔いではなく「これはプログレ酔いだ」と主張し、実際カーステを止めてラジオにしたら回復した。
 変拍子が悪かったのだろうか? プログレとフライはともに英国発祥で共通する部分が多いにもかかわらず、お互いの愛好者は相性が悪いのかもしれないなと思った。確かに多くのフライフィッシャーは人造的な欧州産プログレではなく、米国の土臭いカントリーとかフォークソングを好みそうな気がするし、たしかにそちらの方が釣りには相性が良いだろう。「フライ」も「プログレ」も…という僕はさしづめ矛盾を抱えた存在なのだ。
 プログレ酔いの編集者はその時の(悪い?)印象がよほど強かったと見えて、しばらくしてから「僕は釣りに行く時にプログレを聞く」というテーマの原稿を書いてくださいと言ってきた。編集者という職業は、転んもただでは起きないというのが通例である。彼のプロ意識に感心しながら原稿を仕上げて雑誌に載せてもらった。掲載後、読者から「私もプログレを聞きます」という反響が少ないながらもあったようなので、フライとプログレは必ずしも相性が悪いというわけでもなさそうだ。

 ちなみに渓流釣りには、カンタベリー系のプログレバンドがBGMとしてよくマッチする。それと冒頭に川のせせらぎが聞こえるYES『危機』も悪くない。確かにキング・クリムゾンは向いていないかもしれない。が、私はヤマメ用の必殺の黒い毛鉤を密かに「Bible Black」と呼んでいたことがある。

「バーチャル天皇制」を提案する

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天皇陛下の〝生前退位〟をめぐり、政府が設置した「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(座長:今井敬・経団連名誉会長)が今月7日、専門家へのヒアリングを始めた。焦点となる退位の是非は、意見を述べた専門家5人のうち2人が賛成、2人が反対、残り1人は法制面での難しさを指摘するなど意見が割れた。

おそらくこの結果はあらかじめ想定されたもので、そもそもの専門家の人選がこういう玉虫色の結果を導くことに目的があったと考えるべきだろう。

天皇制の根幹である血脈の危機が迫っているのに、枝葉末節である退位などで揉めるなどずいぶん暢気なことだと思わざるを得ない。秋篠宮の息子に男子が産まれなければその時点で天皇制終了なのだ。ヘタをすると、僕が生きているうちに天皇制の終焉を目撃できる可能性だってある。長生きはするものだ。

個人的には天皇制度は一種の差別構造だと考えているので、制度そのものはさっさと廃止すればいいと思う。もちろん難題である憲法改正が必要になるし、天皇ご夫妻やその子どもたち、孫たちの代の方々にはそれまでのご苦労を十分ねぎらい、適切に遇する必要があるだろう。天皇制度には反対するが、これらの方々を人間としてはかなり尊敬している。先ほど僕は「差別構造」と書いたが、逆に見れば皇族の方々は〝人間扱い〟されていないということでもある。

たとえば皇后の写真をご成婚前から現在まで並べて見てみると、その顔貌の激変ぶりにちょっと胸が詰まる思いがする。ただ老けただけではない、彼女の半世紀以上にわたる「人間扱い」されなかった歴史が投影され、刻みこまれているように思えるのだが、それを乗り越えて自分の役割を十分以上果たされている皇后を心から尊敬する。皇太子妃は心を病んでしまったが、そのことを責める気にはなれない。結婚前に彼女のことを「一生お守りする」と言った皇太子の奮起もあったが、それすら非難にさらされ、御簾の向こう側には底知れぬ深淵が広がっているようだ。求められているのは秋篠宮妃のしたたかな鈍感さなのかもしれないが、彼女の息子と将来彼に嫁ぐ女性にかかるプレッシャーは皇太子夫妻の比ではないだろう。

僕はこういう「非人間的」な制度は、現実問題としてそれほど長くは続けられないと思う。現に皇室は今、実質的に消滅寸前の状態なのだ。国民はまずその認識を持たねばならないだろうし、天皇の〝生前退位〟のお気持ち表明は一種の断末魔のようなものなのだと知るべきだろう。

 

天皇制=天皇家が永久に続くためには、女系天皇や女性皇族、もしかしたら側室制度などの検討が必要かもしれない。しかし江戸時代の大名家では何人もの側室を設けていたにもかかわらず、血脈が途切れるケースは多かった。そして、何をするにせよ皇室制度が身分制度=差別構造であり、反面で皇族に対する「非人間的」扱いであることには変わりはない。僕はその点が最大の問題点と考えている。

そこで僕が提案したいのは「バーチャル天皇制」である。「非人間的」なのであれば、いっそのこと生身の人間が天皇をやるのを止めればいいのだ。AI(人工知能)やVR(バーチャルリアリティ)など最先端のコンピュータテクノロジーを駆使すれば、ネットワーク上に「天皇」と「皇族」のみなさんを存在させることなどそれほど難しいことではなかろう。モニターやスクリーンの中にしかいない天皇なんて、少しも有り難みを感じない....という方もいるかもしれない。大丈夫。3次元の像を記録し,再生するホログラフィー技術が有り難くもリアルな天皇像を貴方の眼前の空間に出現させてくれるだろう。

 

バーチャルなので男系・女系とかいった議論もほぼ無意味となる。男女共同参画社会なのだから、いっそのこと一代ずつ男女交替で天皇になるのがいいんじゃないか?  天皇の風貌と風格は国民の理想とするものをカタチにすることができるし、バーチャル天皇が自然に「年を取る」ことだって簡単だろう。キムタク似でも、でもショーンK似でも、ディーン・フジオカ似でも、堺雅人似でも国民のお気に召すまま。女性天皇であれば、ぜひ桐谷美玲ちゃん似でお願いします。

 

外遊もWWWを通して24時間・365日いつでも対応可となる。もちろん移動時間も不要。ネットワークを通して世界のあらゆるところに日本国天皇は存在できる。同時に数カ国訪問することも可能だ。ある意味、平和的帝国主義といえるだろう。



このバーチャル天皇制導入をきっかけに西暦年と元号のマッチングをわかりやすいものにすることもできる。在位期間を一律50年に決めて、1世紀に2代の天皇というのがいちばんわかりやすいのではないか? もちろんバーチャルだから在位100年でもかまわない。男性天皇であれば最後は仙人のような老爺にしてみるのも乙だろう。女性天皇の場合は卑弥呼コスプレか? 崩御時も人間が死ぬわけじゃないんだから、追い腹を切ったり、「自粛」とか一切不要。逆に崩御を社会イベント化して、国民にじゃんじゃんお金を使わせて景気刺激策に使う手もあるだろう。

天皇と皇族を人間に限定しなければ、こんなに象徴天皇制の可能性は広がるのだ。また、実現すればわが国のテクノロジーの力を世界に見せつける絶好のショーケースとなるかもしれない。

 

憲法改正という大きなハードルはある。しかし「バーチャル天皇制を試してみる価値はあると思うが、どうだろう?


 

類型的な人間 〜11月の呟き

 

 

世界の十大小説〈上〉 (岩波文庫)

 

彼もまた、大抵の私たちと同様、罪──果して罪と言えるかどうか分からぬが──を犯すと、一旦は後悔しても、機会が与えられると、再び同じ罪を犯すのだった。気は短かったが、心はやさしく、寛大で、腐敗堕落した時代の人でありながら、人柄は誠実だった。夫としても父親としても情愛が深く、勇敢で、正直で、友人に対してつねに忠実だったが、友人のほうでも終生彼を裏切ることはなかった。他人の過ちに対しては寛大であったが、残忍な行為や裏表のある言行は心から憎んだ。成功したからといって得意になるようなこともなければ、逆境に出会っても、しゃこ一つがいと赤葡萄酒一びんの助けを借りて、毅然として耐えて行った。人生の浮沈に対してつねに元気よく上機嫌に身を処し、心ゆくまで人生を楽しんだ。つまり、彼自身が描き出したトム・ジョーンズによく似てもいれば、同じく彼が描き出したビリー・ブースにも似ていないではない。まさに彼は人間らしい人間だった。

(W・S・モーム『世界の十大小説』~ヘンリー・フィールディングと『トム・ジョーンズ』~ 西川正身訳)

放蕩と矛盾の人生を送ったフィールディングに対してモームはとても寛大である。

モームという小説家は類型に人間を落とし込むのが得意だが、類型に抗することの徒労とともに類型の限界、すなわち矛盾する複数の類型が一人の人間の中に同居することが自然であるということも心得ていた。他人のことを語っていても、自ずと自分自身の輪郭を描いてしまうのは言語表現の宿命ともいえるが、それを受け入れ、類型の囁きに耳をすますことから、言語の機能性を補う手立ての糸口が見つかる。別に小説に限った話ではない。

そしてまた、この世には自ら描いた、あるいは自ら信じた類型にとらわれ身動きできなくなっている人間も少なくない。そういう人は言葉が浮いており、その人自身しか知らない暗闇にひたすら泥の塊を投げかける如しである。これはおしゃべりや文章の上手下手とは関係ない話である。いわゆるプロでもその類いはしばしば目にする。しかし、暗闇マニアの仲間というものは、世を探索すれば少なからず存在するものなので、幸いにも自分がマニアやヘンタイであることに気づかず、なにか変だなと思いながら人生を全うすることも可能であろう。

 

まあ、人間らしく生きたいね。

『魔太郎がくる!! 』の正義?



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近頃、またしても「いじめ」問題で世間が喧しい。しかし、これはきわめて根深い、人類文明の古典的な問題であり、現代特有の問題としてクローズアップされている構図に少々違和感を覚える。

 

写真賞を受賞した作品に笑顔で写った数日後に自ら命を絶った青森の少女。写真をめぐる大人たちのゴタゴタがなんとも言えず無様であった。

 

news.livedoor.com

いじめられていることを親にも言えず、最終的にはナイフでいじめた相手を斬りつけた暁星高校の少年。ネットで彼が自殺せずに相手に仕返ししたことを賞賛する声も聞かれ、まあ、なんというかもにょんとした気分になった。

 

自殺でなく復讐を選択する弱者。

 

ということから、子供の頃に読んだ藤子不二雄の『魔太郎がくる!! 』を思い出した。当時私のクラスにも容貌&雰囲気から「魔太郎」と呼ばれていじめられているヤツがいた。本人はひどく傷ついていたはずだが、それはそれで小学校の風物詩となっていた気がする。また、いじめる側も弱い人間の追いつめられた時の怖さをある程度認識して手加減もしていた。そこらへんが今の子供と違う部分でもあるのかもしれない。

 

しかし・・とここで言いよどむのだが、実は子供のメンタリティーに今昔の本質的な違いはそれほどないようにも思える。で、何が違うかというかだが、簡単に言えば子供たちを見守る側のアティチュードじゃないかな。たとえばこの『魔太郎がくる!! 』が現在の少年向け雑誌に連載されていたら、いったい世の反応はどういうことになるだろうか? ……そういうことじゃないかと思う。

【追記 17:08】
下のAmazonのリンク先のレビューを見ると、現在流通している「魔太郎」は、かなり問題あるエピソードや場面が割愛&改変されているらしい。……そういうことじゃないかと思う。